「プロレススーパースター列伝」。昭和55年から昭和58年、逮捕報道で中断するまでの間に週刊少年サンデーに連載されたこの作品こそ梶原晩年の傑作である。ザ・ファンクス、ミル・マスカラスなど当代の人気プロレスラーのサクセスストーリーが虚実織り交ぜて語られる。この手法は、かつて、辻なおき、一峰大二らの漫画家と組んで書いていた実在レスラーの物語と同じであり、さらに、それ以前、スポーツ選手読物を書いていたころからのままなのだが、原田久仁信という描き手を得たことで大成功しヒットにつながった。原田の絵は少年漫画と一線を劃す写実的なもので、その重厚な画風が、語られる男達の人生に説得力を与えた。「プロレススーパースター列伝」もまた、長く読み続けられ、真偽を超えて、プロレスの歴史となる。これぞ梶原劇画である。また、原田久仁信は絶筆となった自伝「男の星座」の作画にも起用され、梶原作品を語る上でちばてつやに次ぐ重要な漫画家となった。
「プロレススーパースター列伝」単行本にされて9、10、11巻がタイガーマスク編「夢の英雄!タイガーマスク」。週刊連載で27回。これは紹介されるレスラーエピソードの中で最も長い。連載当時はもちろん現役で、掛け値なし時代のヒーローだった。「四角いジャングル」を「空手バカ一代」の続編として読めると以前に書いたが、「夢の英雄!タイガーマスク」は「四角いジャングル」につながる日本格闘技史になっている。極真空手の関係者がよく登場するのだ。佐山聡も「四角いジャングル」に描かれていた。梶原一騎が主催者の一人であった興行「格闘技大戦争」でマーシャルアーツと異種格闘技戦をして惨敗するプロレスラーとして……「夢の英雄」では、タイガーマスクの人選は新日本プロレス側に任せたので、梶原もその正体を知らないという立場になっている。プロレス界の噂を読者とともに推理追求するという語り口……しかし、「格闘技大戦争」に出場させたというなら、それ以前より梶原は佐山のことをよく知っていて、タイガーのマスク役として指名し、強く要望したとも考えられる。当時、イギリス遠征中で契約期間も残っていた佐山は、違約金を払ってまで、アニメ「タイガーマスク二世」の放映スタートに合わせて呼び帰されたのだ。
「夢の英雄!タイガーマスク」は、漫画「タイガーマスク二世」と共通するストーリーがあるが、このことは、あくまで漫画を現実と錯覚させ読者を興奮させたいとする梶原一騎の作家性なのだと好意的に解釈したい。また、錯覚しながら読むことこそ梶原読者の姿勢である。ブラックタイガーを強敵として登場させ、覆面レスラー王国の意地にかけて、メキシコのレスラー軍がタイガーマスクに襲いかかってくる。 つづく
「悪役ブルース」は、少年サンデーに「プロレススーパースター列伝」を連載中の昭和57年、そして、現実のリングでタイガーマスクが戦っていたその時期、少年マガジンで連載が開始された作品。主人公は覆面悪役レスラー。「タイガーマスク」を連想させずにはおかないタイトルであり、対戦レスラーは実名で描かれるのだが、タイガーマスクは登場しない。ただ、登場人物の会話の中にその名前が出てきて、作品世界での存在が確認できる。梶原一騎の逮捕により、連載が打ち切られたのだが、真樹日佐夫によって続きが書かれ、完結する。全8巻の単行本は講談社ではなく徳間書店から刊行された。
ストーリーを辿る。日本空手界から除名された実戦主義空手家吹雪純矢が主人公。悪役レスラーミスター0に買われてアメリカに渡り、空手を武器にプロレスラーと他流試合をする。導入部は、梶原漫画を読んできた者にとって繰り返しの憾は否めない。吹雪純矢というネーミングの音感も矢吹丈と共通性がある。漫画を担当したのは峰岸とおる。画風に個性が無く、この物語の作画者にふさわしかったのかは疑問が残る。タイガーマスクが悪役ながら最初から最後までスターレスラーであったことに比較して、ミスター0は実力はあるが落ち目の三流レスラー。家も車もなく、一夜の宿、その日の食にも事欠く暮らし。ショービジネスでもあるプロレスラーの現実が、哀愁を込めて、ときに残酷に語られる。まさに「悪役ブルース」の味わいはここにある。ミスター0の目論見は、日本人空手家をタッグパートナーとして従え、付加価値を付けてプロモーターに売り込むことだった。もちろん、悪役の負け役として。吹雪純也のリングネームはカラテ・キッド・ジュン。しかし、もともと純粋な真剣勝負主義者の武道家である。そのうち自制がきかなくなって賭け試合で八百長破りをしてしまい、結局、アメリカプロレス界を干される。少年漫画でありプロレス漫画でありながら、立脚する世界を不純で汚いものと定義している。それなら、プロレスから脱すればよいのであるが、肉体を鍛え傷つけて戦う生き方しか出来ないところに男達の悲しみがある。また、たんにプロレス業界だけを汚いとするのではなく、それを包摂する人間社会が汚いのだと梶原は諦観していたのかも知れない。
プロレス界から締め出された二人は、当面の金を稼ぐためにニューヨーク郊外のスクラップ集積場で夜毎に開催される危険なギャンブル“闇のプロレス”のリングに上がる。ここで登場する最初のライバルがプラチナ・アポロ。キャラクター設定は「四角いジャングル」のベニー・ユキーデと全く同じである。格闘技の天才であり、美男子。悲惨な少年時代を経てきたが、人格は同年代の主人公吹雪純也より円熟している。まったく欠点の見出せない強敵だ。大勢の女のファンがついていることで、プラチナ・アポロが美形であることが察せられるのだが、描かれる輪郭線等に主人公との差があまり無い。作画者の力量不足が残念である。漫画とは記号でもあるのだが、劇画はその筆力によって説得性を示さなくてはならない。新レギュラーがもう一人登場。ガラガラ蛇のモーガン。その名のごとく、蛇のように絡み付いて締め上げる、寝技関節技の名手。蹴り突きの空手技だけではプラチナ・アポロに勝てないと、吹雪純也をコーチするのだが、実は覆面を脱いだミスター0。読者はわかっているのだが、裸でスパーリングをしながら主人公は気がつかないというドラマ上の約束。最初から気になって仕方のないことなのだが、リングアナウンサーが毎回ミスター0を紹介するときのキャッチフレーズが「氷点下0の男」。冷血漢ということを言いたいのだろうが、氷点下0とは、摂氏0度のことか?
プラチナ・アポロと吹雪純也の決着は闇のプロレスのリングではつかず、舞台はメキシコに移る。表のプロレスにデビューしたプラチナ・アポロを追って、吹雪純也も覆面レスラー、ザ・カミカゼとなって再デビューする。カミカゼといえば、我々はすぐに「タイガーマスク」に登場した空手レスラーを思い出す。リングネームも同じなら、白マスクの額に日の丸を描いたデザインも同じ。新しさが無い。一時代を築いた寵児梶原一騎の感性は、ようやく時代とずれてきた。このメキシコ編では、オリジナルの覆面レスラーが何人か登場するのだが、斬新なものは無い。漫画家峰岸とおるにも責任はある。かつて、辻なおきのデザインした覆面レスラー群は、いまなお鮮烈な印象を残しているのだ。なお、メキシコではプラチナ・アポロと吹雪純也の対戦は無い。タッグチームを結成させ、華やかなスターレスラー、アポロと、汚い悪役として生きるカミカゼの対比が描かれ、二人の目標はメキシコプロレス界の頂点、ミル・マスカラスの打倒とされる。
単行本にして第5巻。ここへきて、タイガーマスクが登場する。おそらく、当初は出す予定が無かったはずだ。日本にタイガーマスクというレスラーが出現したことをミル・マスカラスの口から聞き、主人公は驚くのだが、それまでの会話の中にタイガーマスクの名は語られており、物語に整合性が無くなる。じつに、タイガーマスクが出て来たことで、この作品の流れはガラッと変ってしまうのだ。アポロとカミカゼは標的をタイガーマスクに変えて日本に行くことに決めた。ここで、ミスター0とわかれる。ストーリーの軸でもあった師弟の物語はやや唐突に終った。天才児として登場し、ミル・マスカラスとも引分けたプラチナ・アポロは、タイガーマスクに足を折られてやはり物語から消えた。タイガーマスクが主役になってしまったのだ。舞台を日本にして、レスラーを実名で登場させ、さらにリアルタイムの設定なので、架空の人物は自由に動けなくなったのだ。この当時、国際プロレスは興行にいき詰まり、ラッシャー木村ら元所属選手は新日本のリングに上がっていた。「はぐれ軍団」と呼ばれた彼等にカミカゼは合流する。
「プロレススーパースター列伝」でも、タイガーマスクの正体は佐山聡ではないかということがほのめかされていたが、「悪役ブルース」では、はっきり佐山であるとして、佐山がタイガーマスクになるまでの過去の格闘遍歴が描かれる。完全にタイガーマスクがストーリーの中心である。カミカゼはじめ、誰も天才タイガーマスクにはかなわないのだ。カミカゼ吹雪純也は、木村、浜口、寺西ら「はぐれ軍団」と惨めで滑稽な三流悪役として漫画の中であがき続けるばかり。そして、この物語の結末であるが、佐山聡が新格闘技シューティングを創始して、タイガーマスクを脱ぎプロレスと訣別する。吹雪純也はそのジムに入門し、佐山に鍛えられながら、打倒佐山を心に誓うというものだった。 つづく
天才佐山聡とは、どんな男だったのか。昭和32年山口県下関に生まれた。小学生の頃、アントニオ猪木のファンになりプロレスラーになる決心をする。運動神経は抜群だった。漫画またはアニメのタイガーマスクに接することは無かった。中学校では柔道部に入った。卒業と同時にプロレスラーになるつもりだったが親の許しが得られず、レスリング部のある山口水産高校に進学。一年生にして県大会に優勝してしまったという。やはり天才ではある。いなかの高校生レスラーでは相手不足だった。いてもたってもいられなくなった佐山は中退して上京。新日本プロレスに直行した。天才は性急なのだ。体力テストは通過したものの入門は断られた。身長が低かったのだ。親にも許されず、プロレス界からも拒まれた。それでも佐山は小学生のときの夢をあきらめなかった。アルバイトをしながら体重を増やし、懲りずに新日本プロレスの門をたたいた。突撃的請願の何度目かで、なぜか入門を許された。
当時の新日の道場は、意識していたわけではないが、その練習量において世界一だった。裏話としてオリンピック柔道無差別級金メダリスト、ウィレム・ルスカがスパーリングで藤原喜明にまったく歯が立たなかったのだ。リング上でアントニオ猪木と格闘技世界一をかけて雌雄を決するまでもなく、道場において門弟に負けていたのであった。過剰な練習量をこなしていた新日レスラーは、世界最強の集団だった可能性もあるのだ。ところが!佐山は、その練習が終ったあと、さらにキックボクシングのジムに通った。それも、極真空手元世界最高師範・黒崎健時さんの目白ジム。新日道場のコーチは鬼軍曹と呼ばれた山本小鉄。その鬼軍曹がまた鬼と呼ぶほどの、格闘技の鬼が黒崎さんだった。毎日、過酷な地獄を二箇所も巡る肉体の苦痛に耐えることができたのは「世界最強の男になりたい」という願望があったからだった。「世界最強」!これほど純粋な願望はない。夢を希求していた。
ただし、佐山は抽象的な夢を追っていたわけでもなかった。プロレスにはすでに多彩で洗練された、投げ技と寝技の体系はあった。しかし、格闘技にはパンチとキックの打撃技が絶対必要であるという具体的な考えに基づいてキックボクシングを修得しようとしたのだ。理論派で、あるいは頑固な夢想家だった。猪木が日本プロレスに入門したとき、まず力道山の付き人にされたように、佐山も新日本プロレスに入門するとアントニオ猪木の付き人になった。当時の猪木は、格闘技世界一決定戦という路線を企画し、柔道、ボクシング、空手の選手との異種格闘技戦を見せていた。NWAにパイプを持ち、大物外人レスラーを招聘することが出来た馬場の全日本に対抗するために考えた苦肉のアイデアだったとも云われる。プロレスリングとしては邪道という非難もなりたつ。しかし、経営上の理由というだけでは説明できない男のロマンだった。実際、危険である。アントニオ猪木こそ世界最強であることを証明したいという夢を見続けていた男であった。付き人として同じ時間と空間を共有していた佐山が影響を受けないわけがない。打撃系選手の攻撃に苦戦する猪木を観察しながら、ノートを取り、理想の格闘技体系を構築していった。その結論の一つがキックボクシングの研究だった。プロレス入門と同時に佐山は、こんなことを考え実行していたのだ。そして、プロレス入門と同時に佐山はプロレスに失望していた。プロレスがまったくの真剣勝負でなかったことに……。あるとき、佐山は猪木に提案した。新日本プロレスの中に格闘技部門を創ったらどうかと。猪木は賛同してくれた。そのときは、おまえを選手第一号にしてやると言ってくれた。佐山は男の世界に口約束があるものとは思ってもいなかった……。
格闘技選手第一号になる日を信じて猛練習を続けていた佐山にメキシコ行きが命ぜられる。小柄な選手はとんだりはねたりで観せるメキシコプロレスがふさわしいだろうという会社側の常套な判断だった。真剣勝負の格闘技とはほど遠いスタイルのプロレスである。当然、佐山は失望したのだが、余人の理解を超えるのが天才の行動である。佐山は空中戦の本場メキシコの誰よりも高く飛び、速く動いた。なによりも変幻自在の極真空手流キックがメキシコのプロレスファンに受けた。器用だから何でも出来てしまうと不思議な自己分析で当時の心境を本人は語る。このスタイルの戦い方は、イギリスでこそ人気が出た。プロモーターにカンフーレスラー、サミー・リーのギミックとリングネームを付加される。その人気絶頂のさなかに日本に呼び戻されタイガーマスクになるのだが、サミー・リーはタイガーマスクより人気があったという。社会現象となるほどの佐山タイガーの日本での人気も相当なものだったが、イギリスでのサミー人気は、数段熱狂的だったというのだ。ゆえに佐山は、タイガーマスクとして絶賛されながらも冷静でいられた。
メキシコからイギリスに渡る間に、佐山はフロリダでカール・ゴッチの特訓を受けていた。わずか数ヶ月の期間ではあったが、佐山の人生の中では充実した感動の日々だったという。関節技を主体としたレスリングの神技を体得するとともに、プロレスラーのプライドと哲学を学んだ。一切の反則をせず、地味な関節技と華麗なジャーマンスープレックスで相手を仕留めるゴッチだが、けんかとなると、武器はパンチと頭突きだった。肛門に指を突っ込む等の殺し技も知っていた。最強とはリング上の試合で強いことだけでなく、ルール無しのケンカでも強いこと。すなわち、プロレスラーとは誰と戦っても負けてはならないのだ。アントニオ猪木、山本小鉄、黒崎健時、カール・ゴッチ。超一流のコーチ達から技術と哲学を教えられた天才佐山は、一つの格闘技を完成させていた。もはや、覆面を被った子供のアイドルではいられなくなっていた。観客の歓声も人気にともない入ってくる莫大な収入も、佐山の気持ちをつなぎとめることはできない。自分が考案した新格闘技「シューティング」を発表し、真価を世に問いたい。ほかのことは全部無意味に思えてしまう。佐山は新日本プロレスとの契約解除を通告した。
佐山聡すなわちタイガーマスクがプロレスと訣別することは、重大なことだった。シューティング創案の起点はプロレスルールへの疑問であり、完成したシューティングの体系はその解答である。格闘技としてのプロレスを否定していることになるのだ。同時にタイガーマスクも否定した。マスクをかぶること。空中を飛ぶこと。そのスタイルを否定することは、タブーを破ることに直結した。プロレスは八百長だったと内部告発することと同義だった。プロレスは信用を失い、日本での人気は急速に衰えていく。 つづく
タイガーマスク佐山聡がプロレス界をかきまわしていた時期、梶原一騎の身辺も激動する。昭和58年5月25日。梶原一騎逮捕のニュースが流れた。直接の事由は、銀座6丁目のクラブ「数寄屋橋」において、月刊少年マガジンの副編集長を殴ったことだったが、これをきっかけに過去の乱行や女優とのスキャンダル、さらにはアントニオ猪木軟禁事件なども併せて報道され、どれが逮捕の容疑なのかわからなくなったほどだった。ようするに、一時代を築き、少年達の尊敬の対象であった人物の転落をマスコミは叩いたのである。下世話なニュースバリューがあると見たのだ。酒席で口論になり男が男を素手で殴った。それだけのことである。これくらいのことが許されないのなら世の中つまらな過ぎる。むしろ幼稚な社会だともいえる。また、作家、漫画家というような連中は社会的に未熟で不適格なものであるということを覚悟してつきあえとは、編集者が最初に教えられることでもある。創作とは人格の幼児性の部分からしか出て来ないのだ。実は、警察の真意は別にあった。三協映画で製作した作品「もどり川」に主演した萩原健一が麻薬で逮捕された。三協映画とは梶原一騎が映画に手をひろげるために作った会社である。梶原一騎は漫画原作者という肩書きで終りたくなかった。出版界、スポーツ界、芸能界に影響力を延ばしていった。その背景には必ず暴力団との交際があった。萩原健一を逮捕した警察は、梶原も麻薬、覚醒剤の取り引きをやっているのではないかと疑ったのだ。梶原を逮捕するために、月刊少年マガジン副編集長に協力させ起訴させたのだった。講談社としてももはや梶原一騎は必要な存在ではなくなっていた。新たな才能が次から次に出て来る日本の漫画界にとっても邪魔な遺物になりかかっていたのだ。なお、違法薬物については梶原は潔白であった。
昭和60年3月14日。東京地裁に言い渡された判決は懲役二年。執行猶予三年。時代の主役にまでのぼりつめた男ではあったが、その人生は決して順風満帆なものではなかった。波瀾万丈だった。逮捕されてからも悲観することなく挫けることなく次の作品。そして、その先を見つめていた。すなわち、自伝「男の星座」の連載開始を発表。これをもって、劇画原作からの引退を宣言した。今度こそ小説家に徹するつもりである。「男の星座」の掲載誌は日本文藝社の「漫画ゴラク」。作画は「プロレススーパースター列伝」で組んだ原田久仁親。激動の時代を生きた風雲児が赤裸々に語る豪快で数奇な人生を、原田が写実的に活写する。この劇画が完結すれば、もしかすると大傑作になるのではないかと期待された。しかし、突然の逮捕騒動もさることながら、それまでの暴飲暴食の習慣は梶原の巨体を蝕んでいた。壊死性劇症膵臓炎。昭和62年1月22日、膵臓が溶けるという激痛に苛まれながら死んだ。「男の星座」が、未完のまま絶筆となった。
「男の星座」の開巻は昭和29年12月22日蔵前国技館。リングの上にはプロレス王力道山と柔道王木村政彦がいる。梶原一騎は観客席にいた。そして、この会場には空手王大山倍達もいたのだった。大山倍達は梶原に出会わなければ大山倍達ではありえなかった。梶原も大山倍達に巡り会わなかったら梶原一騎ではなかった。極真会館の館長と評議委員長という関係。義兄弟の契りまで結んでいた間柄だった。それが……最期は絶縁状態になったのだ。
昭和50年秋に開催予定の第一回世界空手オープントーナメントの記録映画を撮っておこうと思った大山倍達は、才人梶原一騎に案をもちかける。映像関係者との親交もある梶原は三協映画を設立して、大山倍達の発想に応じた。題して「地上最強のカラテ」。世界各国をロケし、参加選手の練習の模様を撮影し、その強豪達が日本武道館に集結しトーナメントを戦うという構成。「地上最強のカラテ」は25億円ほどの興行収入を上げたという。映画を買って配給した松竹が、その半分を得た。ところが、大山倍達のもとに還ってきたのは1億円。大山倍達は梶原に不審をいだく。「地上最強のカラテ」を2千万円で買い上げ大儲けした松竹は、梶原をそそのかし、「地上最強のカラテPART2」を製作。ウィリー・ウィリアムスが熊と決闘する映像はこの映画のためにセッティングされたのだった。劇画原作者梶原一騎のアイデアは尽きることが無い。ウィリーに熊殺しの称号を与えておおいに喧伝したあと、格闘技世界一の座を賭けて、アントニオ猪木と戦わせることにしたのだ。極真空手のコマーシャルとすれば効果を上げ、入門希望者も倍増したのだが、大山倍達は館長である自分をつんぼ桟敷に置くような梶原の勝手な行動が許せなくなっていた。
アントニオ猪木対ウィリー・ウィリアムス。地上最強を名のる極真空手が一丸となってプロレスに向ったように、傍目には見えた。ところが、極真空手の内部には派閥が生まれていた。その亀裂の原因こそ梶原一騎だった。「空手バカ一代」の登場人物として描かれ、支部道場の経営が潤うようになった梶原派と、劇画作家が極真会で発言権を持つことが面白くない反梶原派。さらに、親梶原派は反大山倍達にもなっていった。アントニオ猪木対ウィリー・ウィリアムス戦の直前、大山倍達はウィリーを破門する。その師である大山茂ニューヨーク支部長を禁足処分とした。これを機に、かねてより梶原一騎の発言力に不審を抱いていた中村忠師範も極真を去る決心をした。大山茂、中村忠両師範は、極真空手世界展開の両輪、大山倍達の両腕とも言って過言ではない人材だった。猪木・ウィリー戦後、極真会はなおも揺れ続ける。「空手バカ一代」で、大山倍達を凌ぐ人気者になった芦原英幸四国支部長の破門が発表された。続いて添野義二埼玉支部長の破門。この人も「空手バカ一代」中のヒーローだった。極真空手の道場生にも、何が何だかわからないというのが実情だった。追い打ちをかけるかのように、昭和56年2月18日の毎日新聞に、極真空手脱税の見出しが乗った。ドリフターズの仲本工事と志村けんのノミ行為と並べて大山倍達の写真が掲載され、子供の人気者の不祥事と報道された。少年部に子供を通わせている保護者は退会させた。
大山倍達の死は、梶原の七年後、平成6年4月26日。死因は肺癌。煙草も酒もやらず、食事と健康には誰よりも気をつかっていた。地上最強を標榜する集団の長はどこまでも最強でなくてはならなかった。飽くなき拳法の研究は、同時に大山倍達を東洋医学に精通させ、それを実践し続けていた。その生活習慣を知る者は死因の意外性に驚く。若い頃に過剰な稽古を自らに課した大山倍達の心臓は強靭になり過ぎ、一日でも稽古を休むとその宿主である肉体に負担をかけるのだった。60歳を過ぎ、70歳になっても稽古を続ける大山倍達の肉体は、いつまでも青年のように元気だった。それでも人体の宿命として癌細胞は発生する。並の老人ならばゆっくりと成長していくのだが、超人の細胞が変化した超癌細胞は急速に進化し最強最後の男を殺したのだった。藤子不二雄のSF作品「ウルトラスーパーデラックスマン」の結末そのままだった。
梶原一騎すでに亡く、大山倍達も逝った平成6年の春。しかし、日本は格闘技ブームだった。その中心にいた、佐山聡も前田日明も正道会館石井和義館長も、梶原一騎と大山倍達の影響を受けてきた人々である。ところが、格闘技の本家極真会館は揺らいでいたのだった。大山倍達は遺言で松井章圭を後継者に指名した。第四回世界空手道大会の優勝者であり、年齢も三十代の松井は、実力、将来性ともに申し分無いかに思えた。しかし、内部の者が納得しなかったのである。まず、遺族が認めず、さらに支部長達が反発した。分裂し、見苦しい訴訟合戦になった。大山倍達存命中なら、支部長会議で意見が対立した場合、道場へ出て組手で決着をつけた。話し合いとか、ましてや裁判に委ねるなどという発想は出てこなかった。極真は武道集団である。その拳は何のために鍛えたのか。自分の意思と正義を押し通すためである。分裂はいまも続いている。極真空手は消滅したと見てよいだろう。
大山倍達の葬儀に出席しなかった男がいた。芦原英幸。「空手バカ一代」で大山倍達に次ぐヒーロー。漫画の中ではケンカ十段の異名をとる痛快でちょっと抜けたところのある暴れん坊として描かれるが、実際は頭がよく器用な人であった。空手・武道について深く研究し、独自の理論も完成させていた。この人が極真を継ぐのなら誰も異論は無かったかも知れない。しかし、そのとき芦原は不治の難病筋萎縮性側索硬化症に侵されていた。その若き日、スピード自慢で変幻自在の技を駆使した天才空手家が、最期は指すら動かせなくなったという。大山倍達が没した翌年、平成7年4月24日芦原英幸逝く。享年50。