梶原一騎は、空手家の主人公が世界を巡って異種格闘技戦をするというストーリーを何度も使いまわした。結論から言うと、自身の名作「空手バカ一代」を凌ぐ作品は生まれなかった。梶原一騎の名前に期待する読者にとっては不満であり、このことについて実弟真樹日佐夫も、直接本人に諫言を呈している。なお「空手バカ一代」が少年マガジン誌上に掲載されるのは昭和46年からだが、大山倍達との交友はそれよりも古いものである。漫画原作を始める前から、スポーツ実録読物というような形式で梶原は、大山倍達の伝記を発表してきた過去の経緯がある。これを梶原の創作能力の限界と看做すか、商業誌に漫画を連載し続ける職業作家の手法と見るか。藤子不二雄や石森章太郎も、同じモチーフ、同じパターンを何度も使っていることは誰もが知るところである。藤子不二雄≒藤本弘は合作「オバケのQ太郎」以降、異生物が一般家庭に居候するというパターンを繰り返す。「ドラえもん」という大輪の花にたどりついた後も、同じ形式で試行錯誤を続けていた。石ノ森章太郎が病床で書き遺した「サイボーグ009・最終章」の構想は、サイボーグ戦士がピラミッドやナスカなどの古代文明の謎をあかすというもの。それは、石森SFを通読してきた者や変身ヒーローを見てきた者にとっては、何度も通過した記憶のあるアイデアだった。
さて「チャンピオン太」についてである。もし「タイガーマスク」で初めて梶原一騎作品に触れ、その物語世界に陶酔した人にとって「チャンピオン太」は混乱と困惑をもたらす漫画であろう。作画は吉田竜夫。日本を代表するアニメーション製作会社タツノコプロの創設者である。漫画家時代から吉田竜夫のネームバリューは大きく、梶原一騎の名が前面に出ることはなかった。主人公は大東太というスポーツ万能少年。力道山に入門し、少年プロレスラーとしてデビューする。大東自身は母子家庭であるが、休日等に、こまどり学園という孤児院へ土産を持って遊びに行く。こまどり学園で寮母をしている娘の名が、ルリ子!「タイガーマスク」は完全オリジナル作品ではなく、プロトタイプとでも言うべきストーリーが存在していたのだ。こまどり学園の名称は「タイガーマスク二世」に引き継がれる。さらに言及するなら、梶原原作・吉田作画で、「チャンピオン太」以前に少年プロレスラーを主人公にした「鉄腕リキヤ」という絵物語も存在する。やはり、虎の穴の悪役レスラーのイメージに受け継がれる怪人選手達を相手にする。
現在でこそ「チャンピオン太」は「タイガーマスク」の光彩の後に埋没してしまったが、決して不人気な漫画ではなく、昭和37年、連載開始間もなくテレビドラマ化されている。トピックとして、力道山が出演し自身の役を演じていること。無名時代の猪木がメイクや覆面で悪レスラーを演じていること。なお、第1話ではその猪木扮する死神酋長と力道山は芝居ではなく本気で戦った。プロレスファンにとっては力道山対アントニオ猪木というべき貴重なフィルムである。「ウルトラマン」のホシノ少年役で有名な津沢彰秀が「タイガーマスク」の健太に相当する役で出演している。また昭和30年代の東京の風景や雰囲気も記録されている。土地を持たない家族が、高層住宅に住まず川にもやいだ舟の中で生活している様子も写されている。アマゾンでゴリラに育てられたゴリラ男という怪奇レスラーが登場する。現在の常識ではアマゾンに野生ゴリラは棲息していない。しかも、そのゴリラ男はコウモリのような翼で飛翔も可能なのだ。これがゴリラに対する当時の認識だったのか。いずれにせよ力道山時代のプロレスは、情報が乏しい分、ファンタスティックな眼で観られていたことを思わねばならない。勿論、大東亜戦争で惜敗した日本国民に代わって、力道山が外人を叩きのめす逆襲劇であったというファクターがこれに加えられる。そして、この残照は「タイガーマスク」がスタートする昭和40年代にもまだ有り続けていたということを忘れてはならないだろう。
辻なおき(直樹)は昭和10年京都に生まれた。近所に転居して来た吉田竜夫と、絵を描く趣味を通じて親交を深める。年齢は辻が二歳上である。吉田の縁者が紙芝居屋を始め、二人はその絵を描く仕事を手伝った。辻の記憶では、昭和25年頃のことである。しかし、紙芝居の絵師に甘んじられなかった吉田は東京へ出た。そして、糊口をしのぐために手をそめた絵物語、漫画が吉田の方向性を決定した。特にこの時代、漫画の需要が急増し、吉田は京都から辻を呼ぶ。
昭和三十年代、少年達の間ではプラスチック模型を組み立てることが流行していた。その資料として今次大戦の記録が争って読まれる。いわゆる戦記ブームが起こった。漫画界もこれに呼応する。辻なおきの画風は精密端正を特徴としており、軍艦や軍用機を描くことに適合していた。描線は力強いが荒々しくは無い。戦記ブームの中、辻の漫画は歓迎され、週刊少年キングに連載された「0戦はやと」はテレビアニメにもなった。(アニメーション製作はピープロ)この時期の梶原一騎もやはり戦記漫画の原作や少年層を対象読者とした戦記小説を書いている。なお、一般に言う戦記漫画とは史実に基づくものではなく、秘密兵器で日本軍が戦局を挽回するといった内容の空想科学物語である。梶原が少年画報に書いた戦記小説「零戦まぼろし隊」は、現在(昭和37年発表)が舞台である。水爆を奪って世界を脅迫する覆面提督を誅討するため、南方の孤島で訓練を続けていた零戦部隊が出撃する。
時代の移り変わりは早く、戦記ブームの後に怪獣ブームが起こり、スポーツ漫画のブームがおとずれる。武器も持たず変身能力も持たず、肉体と根性だけで戦うヒーローの時代である。このブームの旗手はもちろん梶原一騎である。兵器、メカニックの描写が得意な辻なおきのもとに梶原一騎原作のプロレス漫画の仕事が持ち込まれたのは、吉田竜夫との繋がりからのものと想像できる。辻の描く人物は、彼が描く戦闘機や戦艦ほどには魅力的ではない。吉田竜夫の画風そのままの丸顔で眉毛の太い男子が必ず主人公だ。テレビ化された代表作三本「0戦はやと」「タイガーマスク」「ばくはつ五郎」やはり主人公が同じ顔である。(伊達直人の顔は東映動画側で変更された)太閤記を漫画化した「戦国猿」という作品もあるが、豊臣秀吉像も同じ顔で表現されている。
一人の漫画家が違うストーリーに同じ顔の人物を主人公にすることにも作家性を疑うのだが、同時代の漫画家が皆、同じ顔を描くことについてはその気概を批難されなければならない。昭和初期なら、多くの漫画家が田川水泡の画を真似た。平成の今日さらに表現者の個性は失われていないか。特に、女の顔が皆同じであることが多くの日本漫画の難点である。辻なおきも年齢民族を描きわけず、同じ描線で表現した。日本の漫画が世界の類例から冠絶したものであるという評判に対して、同国人として喜ぶことに吝かではないが、事実とは相違すると思う。ここで、近代日本画の大家上村松園、竹久夢二が描く女の顔が観念的であった前例に思い当たる。牽強付会におちるが、黒線の肥痩によって描かれる、日本画と、漫画、アニメに技術的連続性を見出すことも出来る。女人の顔をリアルにデッサンしないことが日本人の思想だとするなら、平安時代の絵巻から、平成のデジタルアニメまでの疑問を説明できそうなのだが、この結論は日本画を浅く看過ぎるものか。
辻なおきについては昭和30年代の人気漫画家という認識にとどめておく。なお、月刊ぼくらに「タイガーマスク」が連載されていた当時、読者からのファンレターは、辻なおきあてに送られた。梶原一騎の漫画原作者という立場は、まだ認知されていなかったのである。月刊ぼくらに、おなじ講談社発行の週刊少年マガジンの広告も掲載されているが、連載漫画「巨人の星」「あしたのジョー」の作者はそれぞれ川崎のぼる、ちばてつやとなっており、そこにはまだ原作者梶原一騎、高森朝夫の名前が無い。
昭和42年末、講談社の月刊誌ぼくらで「タイガーマスク」の企画が始動したとき、梶原一騎は同じく講談社の週刊少年マガジン誌上で「巨人の星」を連載中であった。「巨人の星」は商業的成功の範疇を超え社会現象となる。作画の川崎のぼるの表現力に負うところも小さくないのだが、それ以上に読者(日本国民と言い換えても過言ではなかった)が共鳴したのは梶原一騎の個性であった。「巨人の星」とは主人公が父の職業である野球選手を宿命として継承し、なおかつ、その業界で頂点を目指す物語である。「巨人の星」は漫画で人生が描けることを実証した作品であった。おそらく、世界史上に先例は無かったのではないか?そして、梶原一騎の個性とは、戦前の少年倶楽部等に掲載されていた熱血感動友情小説だった。これは、敗戦以来続いていた風潮に逆らうものであり、反動右翼作家とも呼ばれた。そう呼んだのは漫画など読まない階層の人である。賛否両論。いずれにせよ、間もなく始まる連載「あしたのジョー」の大ヒットと併せて、梶原は時代の寵児になっていく。
ここまでの梶原一騎の履歴を振り返る。事実上のデビュー作は、昭和28年少年画報(少年画報社)の少年読物原稿大募集という企画に応募し、入選し同誌に掲載された「勝利のかげに」である。題材はボクシングだった。梶原が少年小説の募集に応募したことについては解説が必要になる。現在の感覚で、梶原が児童文学を志していたと思われては、この巨人の本性を見誤るからである。往時の少年雑誌には一流の作家が執筆していたのだ。大佛次郎、江戸川乱歩、菊池寛、西条八十、直木三十五、佐藤紅緑……。梶原の目標は、文豪と呼ばれるほどの作家になることだったのだ。なお、この応募作品の直接のきっかけについては、梶原著「劇画一代」(毎日新聞社刊)によると、当時、山川惣治が漫画少年に連載していた絵物語「ノックアウトQ」に感激したことだったという。これは、「少年ケニヤ」の山川惣治の自伝で、作者と一緒に印刷工場にいた親友木村久五郎(実在人物)がボクサーになり成功する物語である。そして、山川自身も挿絵画家として有名になる。「勝利のかげに」もまさしく少年ボクサーの話なのだが、「巨人の星」にもプロ野球選手を目指す星飛雄馬と画家を目指す同級生の友情のエピソードが挿入されていたことに思いあたる。ノックアウトQに梶原はよほど思い入れがあったらしく、「チャンピオン太」では主人公大東太の必殺技の名称として使っている。蛇足ながら…テレビ版「チャンピオン太」のノックアウトQは新仮面ライダー1号がきりもみシュートと名前を変えて使っている。こっちの方が有名かも知れない。
少年小説家としてデビューした梶原一騎であるが、少年雑誌の中で小説や絵物語に割かれるページは斬減し、やがて漫画一色になってしまうと、その立場は漫画原作者という中途半端なものに追いやられる。絵が描けない梶原は、内心忸怩たる思いであったが、さりとて漫画家を目指しているわけでもないのだ。文士の孤塁を死守せんとする気概は維持し続けていた。苦闘の過程に、「巨人の星」と「あしたのジョー」の成功があったのだ。小説家を目指していた梶原は、それを果たす前に世に出てしまった。付随して、漫画原作者という職業に社会的地位を認めさせる。さらには日本漫画の対象年齢まで引き上げたのだ。
少年マガジンの購買層の年齢が上がったことで、同じく講談社より刊行されていた月刊ぼくらは低年齢層にターゲットをしぼることにした。(週刊少年マガジンの創刊は昭和39年。月刊ぼくらの創刊は昭和29年である)そして、講談社ぼくら編集部はここでも人気作家梶原一騎に連載原稿を依頼することにした。題材はプロレスということにして、主人公は正義の覆面レスラー。梶原にとっては自家薬籠中のパターンといえた。
「タイガーマスク」の題材である昭和42年現在の日本のプロレス事情を見てみる。力道山が急逝するのは昭和38年12月だが、日本テレビによる定期番組の人気は平均視聴率40パーセントを維持していた。(アニメ「タイガーマスク」がスタートするのはのは昭和44年10月であるが、日本プロレス協会の試合は昭和44年5月から日本テレビとNETテレビの2局で毎週放送されていた。昭和41年に設立された国際プロレスの試合は昭和43年からTBSが放送。)日本のエースは名実共にジャイアント馬場であった。インタナショナル・ヘビー級選手権争奪戦でディック・ザ・ブルーザーを破り、同タイトルへのルー・テーズの挑戦を退け力道山の後継者としての地位を確立する。
特筆すべきことは、4月のアントニオ猪木の日本プロレス協会復帰である。猪木は前年、豊登に口説かれ日本プロレス協会を離叛し東京プロレスを旗揚げしたのだが、興業成績不振で解体したのだ。 やがて、猪木は昭和46年12月、再び日本プロレス協会を離れることになる。すなわち「タイガーマスク」が連載され放映されていた昭和42年から昭和46年とは、馬場と猪木が同じリングに上がっていた期間だったのだ。とりもなおさず日本のプロレスにとって最も幸福な時間だったのである。アントニオ猪木の登場しない「タイガーマスク」をシュミレーションすれば寂寥感がただよう。昭和56年にテレビ朝日で放送された「タイガーマスク二世」にはジャイアント馬場が登場しなかったが、その商業事情的違和感はタイガーマスクのテーマにそぐわないものであった。「巨人の星」においても現役の選手が実名で登場することが作品の魅力であった。架空のキャラクターと実在人物が会話したり対決したりする虚実の皮膜が醍醐味である。肖像権などの問題もあり困難なことなのだが、スポーツ選手や団体に取材し交流を深めていた梶原一騎にして可能になる作劇法である。(アニメ「巨人の星」には後楽園球場の場内放送係の方が自分の役をアフレコして星飛雄馬と話をする素晴らしい場面がある)
昭和42年をもう少し俯瞰してみる。連載中の人気漫画は、何と言っても「巨人の星」、さらに「柔道一直線」(作画永島慎二)。赤塚不二夫の「おそ松くん」。昭和26年に始まった手塚治虫の「鉄腕アトム」もまだ連載中である。人気漫画家は藤子不二雄、横山光輝、ちばてつや、石森章太郎。子供番組は「仮面の忍者赤影」、「光速エスパー」、「ジャイアントロボ」、「コメットさん」、「ウルトラセブン」いずれも良質な作品であるが怪獣ブームは終焉をむかえつつある。アニメーションでは、手塚治虫原作の「ジャングル大帝」「悟空の大冒険」「リボンの騎士」。「タイガーマスク」を製作することになる東映動画は「魔法使いサリー」。川崎のぼるの「スカイヤーズ5」という漫画がアニメ化されている。「巨人の星」は翌43年放映開始。この時期はアニメ企画進行中だったと考えてよいだろう。ちばてつや原作の「ハリスの旋風」は昭和41年にスタートし42年も放送中である。総理大臣は自民党の佐藤栄作。流行語は「ゴーゴー」意味不明な言葉だが漫画の中でタイガーマスクも使っていた。(43年の流行語は「ヒッピー」これをリングネームにするレスラーがアニメに登場。44年は「人類が月に行く時代」この言葉は虎の穴のボスの口からも出た)流行歌は伊東ゆかりの「小指の思い出」。映画は「日本のいちばん長い日」。当時文芸春秋編集者だった半藤一利さんの取材した8月15日の記録に基づくものである。ベストセラーは有吉佐和子の「華岡青洲の妻」。これも42年中に映画化されている。
プロレス以外のスポーツの話題は、ハワイ出身の日系ボクサー藤猛が世界J.ウェルター級チャンピオンになったこと。海兵隊員として厚木基地に駐屯していた藤は除隊した後、リキジムに入門。トレーナーは力道山がやはりハワイから招聘した名伯楽エディ・タウンゼントJr.だった。大相撲では、 高見山が外国人初の関取になる。貴乃花との一番は大人気を呼んだ。プロ野球は巨人軍無敵のV3 。プロレスに馬場、猪木があり、野球には長嶋、王がいた。
怪獣ブームについても触れておく。火付け役となったのは、昭和41年、TBS・円谷プロ製作の 「ウルトラQ」と、それに続く「ウルトラマン」であった。子供にとって最高の娯楽であった円谷英二の怪獣映画を、家庭の受像機で観れる贅沢は夢のようであったのだ。しかも、毎週新怪獣が登場するというのだ。テレビ受像機が今上陛下鳳輦の儀と東京オリンピックの中継放送を経て目標普及率を達成していたという下地もあった。日本の子供の生活が怪獣中心に展開していたような時代、梶原一騎もまた「大妖虫サソラ」等数本の怪獣漫画の原作を書いている。実は、梶原の筆は奇想天外な物を書かせるときにこそ冴える。本来空想力の豊富な作家なのであろう。ミスターノー、スノーシン、ピラニアン……原作版「タイガーマスク」には奇想天外というべきか荒唐無稽というべきか、怪獣的レスラーが次々に登場する。アニメ版「タイガーマスク」のスタッフが、レスラーという制約にとらわれていたのか、ついに原作版の驚きを超える仕掛けの覆面レスラーを生み出しえなかったのは不満である。怪獣ブームと「タイガーマスク」の因縁についてもう一つ。怪獣ブームは昭和42年には下火になり、怪獣商品を生産していた企業が次々に倒産していった。本山の円谷プロ自体が存続の危機に直面していたくらいである。44年にスタートするアニメ「タイガーマスク」はスポンサー探しに苦労することになった。幸い、京都に本社を置く玩具会社中島製作所が版権を買い上げ、ソフトビニール製の覆面レスラー人形が大ヒット商品になったという経緯がある。
さて、講談社ぼくら編集部の注文に対して梶原一騎が出した案は「ライオンマスク」であった。作画の辻なおきは、これを拒否し、代案としてトラにすることを要望した。ライオンは描くのに時間がかかるというのが理由である。漫画家は月産頁枚数を稼がなければならないのだ。作品「タイガーマスク」の中で何度も象徴的に描かれる虎のイメージであるが、これはライオンでも他の動物でもよかったわけである。虎であることに必然性は無かったのだ。拍子抜けするエピソードである。
ところで、梶原一騎といえば頑固で誇り高く、ときに暴力を揮う作家であったという悪名が出版界に残っている。自分が書いたせりふの一字一句を変えることすら許さなかったとも聞く。それが何故、かくも簡単に辻なおきの変更案を承諾したのか。ライオンに深い理由が無くとも、どうして自案を主張しなかったのか。その謎は、当時の梶原の仕事量を見れば納得がいく。漫画「タイガーマスク」の原作を書いていた昭和42年末から昭和46年こそ梶原の最も多忙な時代だったのだ。凡そ日本国内で発行されている少年漫画誌には長編、短編、連載、読切り等なんらかの形で執筆している。(「セブンティーン」という少女誌にも女子体操選手の漫画原作を書いている。)比較するものがあるとしたら、昭和30年代の人気大衆作家司馬遼太郎の仕事量に匹敵するか、それとも凌駕している。司馬作品の「燃えよ剣」と「龍馬がゆく」が同時に書き進められていたように、「巨人の星」と「あしたのジョー」も同時に進行している。連載開始前の梶原は、幼年誌ぼくらに執筆するプロレス漫画「タイガーマスク」に、作家として深い思いを込めてはいなかったのだと考えてよいだろう。
ライオンは描くのに時間がかかるからトラにしようと言った辻なおきのデザインとは、黄色と黒の横縞に耳を付けただけのプレーンな覆面だった。これを以てタイガーマスクを名のらせようとしたが、さすがに編集者が承知しなかった。辻は思い切って人間の体に虎の頭部を据えることにした。現実的に考えればネコ科動物とヒトの眼、鼻、口の位置は一致しない。(視界が確保できず、レスリングをするには不利であろう。)上半身は裸のままであるが、下半身は力道山式の黒いロングタイツをはかせる。回が進むにつれて虎模様のパンツを重ねる。これで頭部の構造物とのバランスがとれた。入場時にやはり虎縞のマントを羽織らせれば、仮面のヒーローの完成である。余談になるが、高垣瞳が戦前の少年倶楽部(大日本雄辯會講談社)に連載していた小説「豹の眼」が昭和34年にテレビドラマになった。これにジャガーという者が登場する。ぬいぐるみの豹のマスクを被って、マントをひらめかせた悪漢であった。昭和26年、「白虎仮面」という絵物語がある。少年少女冒険王(秋田書店)連載。作者は岡友彦。幕末が舞台だが、主人公は虎の顔の剣士である。二例を挙げたが、辻なおきのオリジナリティーに疑いをかけるわけではない。古来、日本民族には獣の面を被ることに神秘的な意味付けをする風習があったのではないかという假説を提示したかったのだ。この説が立証できれば、もしかすると、梶原及び辻の低いモチベーションを大きく裏切り「タイガーマスク」が大人気を博した真相が解明できるかも知れない。実際の現象として、中島製作所のタイガーマスクソフトビニール人形は爆発的に売れた。そして、タイガーマスクのフィギュアは現在も需要がある。なお、栗本薫の長編小説「グイン・サーガ」の主人公豹頭の戦士はあきらかにタイガーマスクからの発想であろう。
戦中は勿論、終戦後においてもアメリカ国内では、日本民族は敵視され辛酸を舐めさせられていた。渡米し活躍している現在の日本人スポーツ選手の苦労と努力も並大抵のものではないのだが、当時、太平洋を渡った日本人選手の覚悟は死と背中合わせだった。「空手バカ一代」に描かれるように、日本人及び日系人レスラーは、悪役を演じ、罵声を浴び、嘲笑を受け血だるまになりながら生死ぎりぎりのところで戦っていた。大山倍達が、八百長を拒み、真剣勝負でアメリカ人レスラーを倒すと、観客は必ず暴動を起こした。銃が乱射され、警官が出動し、マフィアが脅迫した。大山倍達の武者修行の状況はこういうものであり、それが当然だった。ところが、力道山の場合、観客はその勝利を賞賛し、応援したというのだ。理由は単純で、容貌だった。陽気で英雄然とした雰囲気を先天的に備えていたのだ。力道山がプロレスを日本に持ち帰り、テレビがこの男の顔を映し出したとき、一大プロレスブームが巻き起こった。これ以前にプロレスを日本で始めようとした人物は何人もいたらしいが、根付かなかった。時代はスターによって創られる。
昭和33年、長嶋茂雄が読売巨人軍に入団したときから、プロ野球は国民的人気を獲得する。巨人軍創立時の大エース澤村栄治と言っても、現役時代、その名前を知り正当に評価できる人は、少数だった。想像しにくいことだが、野球の主流は東京六大学野球で、給料をもらってする職業野球は邪道とされていたのだ。それが六大学野球のスター長嶋茂雄が巨人に入団した瞬間から状況が一変したのである。むろん、日本に野球が入ってきたのは古く、正岡子規がことのほかこの競技を愛好し、野球を題にした句歌も詠んでいる。しかし、病弱な男の作った俳句で世の中は変らない。長嶋茂雄の肉体だけが時代を激変させた。ついに昭和39年、後楽園球場に天皇陛下をお招きし、天覧試合が開催された。読売巨人軍対阪神タイガース。長嶋は昭和天皇の御前で、9回裏サヨナラホームランを放つ。この構図は、大昔、後醍醐帝を奉戴し奮戦した楠木正成に準えられた。一方、逆臣となったタイガースのピッチャー村山実は、その死の瞬間まで悔恨の思いを抱えていたのだが、悲劇のヒーローとして、彼もまた絶大な共感を得た。村山、江夏、野村、星野、王……、長嶋を中心にプロ野球の人気は俄然沸騰してゆく。
少年漫画も長嶋に連動した。陸軍の戦闘機パイロットだった漫画家ワチサンペイが描いた「ナガシマくん」という作品もあったが、この項で取り上げるのは「巨人の星」である。主人公星飛雄馬は肉体を鍛錬し続けるのだが、力点は肉体ではなく精神の方におかれた。劇作家花登筐がひろめた京言葉である“ど根性"で言い表された。主人公の父親星一徹のモデルとなったのは、長嶋を立教大学野球部でしごいた砂押監督であるが、一徹と飛雄馬の関係は、教育界も注目した。教育方として漫画が参考にされたことは前代未聞であり、以後も無い。勿論、教育論とは無縁の場所で少年達は「巨人の星」のテーマに賛同した。「巨人の星」には野球選手になる方法が描かれていたのだ。カール・ゴッチの口吻を借りて、少年が男になる方法と言ったほうが本質かも知れない。大勢の少年が「巨人の星」を読んで、しゃにむに野球選手を目指したのだ。架空の人物星飛雄馬がプロ野球の発展とレベルアップに果たした功績は、長嶋と比較しても小さくないと断言できる。
男子は野球だったが、女子はバレーボールだった。東京オリンピック日本女子チームの影響である。体格で優る外国人をくだし金メダルを獲得する壮挙だった。東洋の魔女と怖れられたほどの技術もさることながら、鬼と言われる大松監督の猛特訓に耐えた精神力が全国民を感動させた。ことに少女にとっては、特別な意識をあたえた。アニメーション「アタックNo.1」、ドラマ「サインはV」、少女漫画を原作とするこの二作はいずれも大好評を得た。「巨人の星」「あしたのジョー」「柔道一直線」「タイガーマスク」「アタックNo.1」「サインはV」を併せてスポーツ根性漫画(ドラマ)というカテゴリーが形成され、スポ根ブームと呼ばれる時代を作った。この作品群の中における「タイガーマスク」の特徴は、主人公が大人であるという点か。スポーツ漫画で重点的に描かれるのは十代の主人公の心身の成長過程だが、「タイガーマスク」には青春ドラマの雰囲気が無い。
「柔道一直線」については項を改めて書く。東京オリンピックの最大の衝撃は、この大会より正式種目に採択された柔道無差別級決勝で日本選手が敗退したことであった。元柔道部員だった梶原一騎は、少年キングに「柔道一直線」という作品を発表した。この作品は、漫画よりも、東映製作のテレビドラマの方が話題になる。30分番組ながら評判がよく、2年間、話数にして94話まで続き、主演の櫻木健一 、吉澤京子をアイドルにした。TBSの橋本洋二プロデューサーは、十人で一歩進むという戦後教育思想に対抗し、一人で十歩進む人間を見せようとしたと言う。東映のアニメ案を退け実写にすることを決めたのも橋本プロデューサー(「ウルトラセブン」後半から第2期ウルトラシリーズを担当した人でもある。)だった。この番組は、「タイガーマスク」とともにまったく別の歴史的役割を持つことになったのだが、そのことについても後述する。
大東亜戦争の真っただ中に製作された、72分のセルアニメーション「桃太郎海の神兵」(松竹映画)のフィルムが現存している。桃太郎が犬、猿、雉等の動物部隊をひきいて現在の戦争で大活躍する物語。その完成度は後世の鑑賞に堪え得るものであり、日本のアニメーション技術は、この時点で世界レベルに到達していたことが確認できる。もっとも、アニメーションで実写映画に匹敵する劇場公開作品を作ろうとしていた国は、当時、日本とアメリカだけだった。このことは、同時代、空母艦隊を運用して、地球規模の戦闘行動ができる国が、日本とアメリカだけだったことと相似するかも知れない。「桃太郎海の神兵」の監督は政岡憲三。映画技師として円谷英二とも関係があった人である。政岡憲三が円谷英二と組んだ映画は昭和10年「かぐや姫」(JO)だが、これはセル画撮影ではなく人形アニメーションだった。1933年(昭和8年)公開の「キングコング」の人形アニメーションに感心した円谷英二は、この駒撮り技法の可能性を探っていたのだ。戦時中円谷英二が課長をしていた東宝特殊技術課には、セルアニメーションを作る線画係という部所もあった。ただ、円谷英二はこの技術を教育映画の図説場面等に補助的に使う範囲にとどめていた。円谷英二が完全セルアニメーション映画を作る方向に向わなかったのは、自身が絵描きではなかったからであろう。その線画係に在籍していた鷺巣富雄は、戦後、東宝で労働争議が起きると、さっさと退社し、漫画家になった(筆名うしおそうじ)。そして、昭和35年、アニメーション製作会社ピープロダクションを起こす。ピープロが軌道に乗り始めた頃、鷺巣は、政岡憲三を自社に招いている。
東映は子供向けプログラムの充実を方針とする会社だった。撮影所の神棚には、どこの誰だか知らない洟を垂らした子供の写真が祀られている。忍者映画やチャンバラ映画に集まる子供こそが大切な客筋で、神様なのだ。昭和31年、東映社長大川博は、政岡憲三を株式会社日本動画ごと買収し、東映動画を設立する。嘱託として手塚治虫も迎えた。「鉄腕アトム」開始以前のことである。日本のアニメーションの人脈図は、東映動画を中心に作成することができるのだ。大川社長の目論みは、喫緊には子供向けコンテンツの拡充であるが、 長期的には海外市場の開拓だった。日本人の平面的な顔と肉体が国際競争力を持たない現実は諦めるしかないが、アニメーションならその壁を突破することが出来ると考えたのだ。実際にその後の歴史は、その通りになった。日本民族の肉体を所有する者には、手放しで喜べない成功であるが…。
量産体制を整えた東映動画が作る長編、短編の漫画映画は、きわめて良質な作品群だった。良質であるとは、作画技術、撮影技術が高度であるということと、子供に観せる映画として道徳的で良心的であったということである。作品名を幾つか列挙する。「白蛇伝」「安寿と厨子王丸」「少年猿飛佐助」「西遊記」「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」「わんぱく王子の大蛇退治」「わんわん忠臣蔵」etc.。「わんぱく王子の大蛇退治」(昭和38年)とは須佐之男命による八岐大蛇退治の物語である。同じく古事記に題材を得た、昭和34年の東宝大作映画「日本誕生」(特技監督円谷英二)と比較することが出来るが、わんぱく王子の方が数段上の作品であるという評価が定着している。これは特撮怪獣ファンが下した結論である。「日本誕生」と「わんぱく王子の大蛇退治」もう一つの共通点は、音楽が伊福部昭だったということ。特撮怪獣ファンがこのアニメ映画を無視できない最大の理由でもある。日本民族の古代史の背景に奏でられる調べは伊福部昭しかない。動画技法とともに東映漫画映画は劇伴音楽についても軽視しなかった。
「わんぱく王子の大蛇退治」が公開された昭和38年。テレビの普及により、劇場観客数は激減していたのだが、この年、手塚治虫が社長である虫プロダクション製作の「鉄腕アトム」が始まった。毎週定期的に放映される国産テレビアニメーションのスタートである。「鉄腕アトム」は大評判になった。後続の「鉄人28号」「エイトマン」(両作ともエイケン)も評価は上々である。東映動画もテレビに進出する。第1作のタイトルは「狼少年ケン」。人間と動物が会話する世界観は東映漫画映画から受け継いだが、緩慢な説話風は否定され、テンポの速さこそ重視される。短時間の中に激しい動きを追求していった。この作風は「タイガーマスク」のプロレスシーンや、「マジンガーZ」から始まるロボットアニメのアクションに継承され発展していく。東映調と言ってよかろう。実際、この時期に、実写剣戟映画のスタッフが演出に参加し始めてくる。そして、初期のアニメーターは東映動画を去っていく。戦前からの漫画映画の精神とでもいうべきものは東映動画を経て「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」に流れ「となりのトトロ」「もののけ姫」につながっていった。
これより、アニメ「タイガーマスク」について検証していくのだが、一つの結論的事実がある。昭和38年の「鉄腕アトム」以来、現在まで1000本以上の放送タイトルが存在するが、プロレスを主題にした物は、実に、「タイガーマスク」と「タイガーマスク二世」の2本だけなのだ。
東映動画のテレビ2作目は「風のフジ丸」。東映のお家芸とも言うべき忍者物語。演出に勝間田具治の名前がある。東映京都撮影所出身。名匠マキノ雅弘のもとで助監督をしていた人で、実写チャンバラのテンポをアニメに取り入れた。後の「タイガーマスク」「マジンガーZ」でも、実写時代に学んだスキルを活かしたと証言している。勝間田の代表作の一つ「UFOロボグレンダイザー」。マジンガーシリーズ第三弾で、日本の子供には飽きられた観があったのだが、これがフランスのテレビで放送されるや、視聴率100パーセントという壮絶な記録をたたき出した。この人がアニメ「タイガーマスク」に残した功績も、我々、日本人視聴者の評価以上に大きかったのだろう。なお、「風のフジ丸」の原作は白土三平の漫画「忍者旋風」。主人公の名前の由来はスポンサーの藤沢薬品の社名。忍者といえば、漫画の第一人者は白土三平である。東映京都でも白土三平の「ワタリ」を特撮時代劇映画に仕立てて好評を得た。これをそのまま、テレビドラマにする計画もあったが、映画「ワタリ」の内容があまりに原作とかけ離れていたため白土が承諾しなかった。あらためて横山光輝に原作を仰ぎ、あの大傑作「仮面の忍者赤影」が生まれたという経緯がある。この横山光輝の、東映動画への功績もまた大きい。横山原作アニメ「魔法使いサリー」は、視聴者を少女に限定してもビジネスとして採算がとれることを証明した。白土の代表作「サスケ」「カムイ」は東映動画ではなく、エイケンがアニメ化した。
東映動画のテレビ3作目は「宇宙パトロールホッパ」。初の宇宙アニメとされているが、そのことに意義は無い。初期のテレビアニメの題材にSFが多く選ばれたのは海外市場を視野に入れていたためである。日本人にしか理解できない内容は避けられた。経済大国に成長する前の日本政府もアニメーションに外貨獲得を期待していたのである。そして、4作目が「レインボー戦隊ロビン」。スタジオゼロとの提携作品である。スタジオゼロとは、鈴木伸一、藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろうらトキワ荘の漫画家仲間が集まって作ったアニメーション製作会社だった。東映との関係という部分で、石森章太郎を見てみる。実は、東映動画が嘱託として手塚治虫を招いたとき、手塚は石森を助手として連れて来ていたのだ。石森原作「サイボーグ009」が東映動画でアニメ化されたことは、この交流がもとになっている。「サイボーグ009」では、木村圭市郎ら、後に「タイガーマスク」に関わるスタッフが参加して、アニメアクションの実験と経験を積んだ。この蓄積が「タイガーマスク」の成功に繋がる。なによりも、石森と東映との関係といえば、「仮面ライダー」であろう。この作品こそが東映の救世主であり、現在を築く基盤となった。石森は既に亡いが「仮面ライダー」は現在に至るも続行しており、東映は、原作者に石ノ森章太郎の名を掲げることをやめない。
ところで、「仮面ライダー」誕生の苦労話のはじめに語られるのが東映労働組合との戦いである。撮影スタジオは労働組合に占拠されていたため、プロデューサーはスタジオ探しから始めなければならなかった。神奈川県の山奥生田に貸しスタジオを見つけ、ここにスタッフを集めた。「仮面ライダー」の撮影はスト破りから始まった。
ちびっこハウスの健太の声を演じた声優・野沢雅子が、「タイガーマスク」について聞かれて、真っ先に回想するのが、労働組合の活動である。外部の人間である野沢の目から見て、その行動は妨害としか映らなかった。「巨人の星」のアニメが大ヒットをしていることに注目した東映テレビの渡邊亮徳課長は、梶原一騎に接近し、「タイガーマスク」のアニメ化権を獲得。プロデューサーに「ゲゲゲの鬼太郎」を担当していた東映動画の斉藤侑を指名した。(余談ながら、水木しげるの原作タイトルは「墓場の鬼太郎」。テレビ化に際して、渡邊課長の判断で「ゲゲゲの」に変えた。ゲゲゲで始まる有名な主題歌は、アニメ化以前に存在していた。)斉藤の最初の仕事も、やはり、労働組合との折衝だった。東映動画労働組合の委員長は高畑勲、書記長は宮崎駿。両人とも、結局「タイガーマスク」には参加していない。演出の勝間田具治は、第二東映から来た人である。第二東映とは、労働組合の活動で製作体勢がままならない東映が、非組合員で作った別会社である。昭和35年に始まって、二年後に潰れた。勝間田は第二東映で失職し、動画に流れて来た余剰人員だったのだ。スタジオゼロも仕事の注文が増え、従業員を増やしたところ、彼等が労働組合を作った。その活動を、役員の藤子や石森が抑えきれずに解体した。 次頁→