平成元年、手塚治虫の訃報を報じた各誌には、その薫陶を受けた漫画家及び各界からの弔辞が掲載された。誰もが天才の死を惜しみ、偉業を讃えた。その中にあって一人、おそらく日本で最も有名なアニメーター宮崎駿だけは、手塚治虫がやったことは間違っていたと糾弾した。テレビアニメ第一号「鉄腕アトム」を、手塚は採算が合わないほど安い値段で受注したのだ。これが日本のアニメ相場の前例となり、後に続くアニメーターは生活苦を余儀なくされる結果になってしまったのだ。手塚のやり方は、アニメで発生した赤字を漫画の原稿料で補填するという方法。これは健全な会社の姿ではない。もとより手塚は漫画家であって経営者ではない。宮崎は的外れであることを承知の上で弾劾しているのだ。宮崎がいた東映動画もアニメーターの給料を低く抑えようとした。当時の証言(小松原一男)によると月給二万円だったという。鷺巣富雄も東映動画に誘われたのだが、給料が安いので断った。それでもアニメーションを作りたかった鷺巣はピープロダクションを起こすのだが、ピープロスタッフが給料面で厚遇されたという話は聞かない。むしろ逆の噂が残っている。紡績産業に似て、アニメーターは婦女子の仕事になった。
そういう状況の中で思い浮かべられるアニメーターのイメージから、木村圭市郎はほど遠い。強面の巨漢である。「タイガーマスク」に携わっていた頃は、梶原一騎とよく間違われたそうだ。乱暴者だったが、馬力があるため他のアニメーターより仕事量が多かった。それで認められて作画監督になった。作画監督とは東映動画が取り入れた方式で、他の製作会社には無かったり、呼称が違う場合もある。演出家が作った絵コンテを実際に絵にし、アニメーターに動きを指示する。実写から来た勝間田具治などは、全く絵が描けないので、作画監督の技倆にかかる比重は大きい。特に第一話を担当する作画監督を総作画監督とも呼ぶ。木村圭市郎が「タイガーマスク」の総作画監督 である。
作画監督の重要な仕事がキャラクターデザインである。第一話作画監督木村圭市郎が、主人公のタイガーマスクをデザインする。作業効率を高めるため、線数は極限まで少なくされる。靴紐などは省略する。辻なおきのタイガーマスクは、日本人の頭身よりも足を長く描かれている。これは、辻が吉田竜夫から学んだ描法である。しかし、木村はそれで満足せず、さらに頭を小さくし、手足を長くした。ロバート・ピークのスポーツイラストを参考にしたという。人体に大袈裟なパースをつけることで、原画段階から躍動感を表そうとした。異様な体型なのだが、これで作品全体の個性が決定した。伊達直人の顔も辻なおきの原作から離れた。丸顔を変更し、年齢を感じさせる輪郭にした。この顔は、実はタツノコプロのキャラクター紅三四郎の顔なのである。「タイガーマスク」の前に、木村は「紅三四郎」を描いていたのである。何故、東映動画の木村が、タツノコプロの仕事をしていたかといえば、給料が安かったからにほかならない。日本のアニメーターの人脈図は東映動画を中心に作成できると書いたが、その離合集散は煩雑を極める。収入が安く、さらに不安定であるため一所に定住できないのだ。これもまた、木村が「タイガーマスク」の作画監督に選ばれた理由と思われるが、木村は労働組合に入っていなかった。アニメーターは労働者ではないというのが木村の主張だった。宮崎、高畑とは対立する姿勢をとっていた。労働組合の人間が芸術家という言い方を好んだのに対して、木村は、道楽の延長だと言った。この考え方は木村独自のものではない。活動屋などは道楽者か極道者のする反社会的な仕事とされていたのだ。圓谷英一も、家督を継ぐべき長男が、活動写真にうつつをぬかしている、そのうしろめたさを隠すために円谷英二と変名した。
「タイガーマスク」で初めて、実験的に取り入れられた技術があった。原画をそのままゼロックスで、セルにコピーするという方法。5B以上の濃い鉛筆を使って一気に描いた絵のコピーは手作業のトレース線よりも汚い。また、デッサンが狂っても手直しがきかない。このやり方がいやで、やめたアニメーターもいた。しかし、木村は気にしなかった。荒々しさを感じさせるこの線は、むしろ木村の乱暴な性格に合っていた。「タイガーマスク」のあのオープニングは、全く木村の仕事である。虎の像の口から跳躍する伊達直人。脱いだコートが裏返ると虎のマントになり、タイガーマスクに早変わりする衝撃的なタイトル。画面はめまぐるしく変転し、リングの広さも天井の高さも超越して、タイガーマスクは縦横無尽に激しく動き回る。デッサンやパースの異状は、動きを激しくした場合、ほとんど無視できて、むしろ計算外の効果を上げるのだ。そのことを木村は「タイガーマスク」で実証し、東映動画の作風として「マジンガーZ」「ゲッターロボ」などのロボットアニメが継承していく。日本のテレビアニメが東映式を模倣するなかで、タツノコプロはデッサンの精確さを重視した。「科学忍者隊ガッチャマン」「破裏拳ポリマー」等の神経質なまでに丁寧な作品群からは技術的感動を覚えざるを得ない。「タイガーマスク」での木村の成功は功罪半ばする。
作画監督木村圭市郎の名前は、82話を最後に消える。(放映リスト参照)木村がいつも絵コンテを無視した作画をするため、演出家が仕事を任せなくなったのだ。木村は怒って喧嘩をして、東映動画を辞めた。その後も他社で仕事を続けたが「タイガーマスク」以上の作品には巡りあえなかった。梶原作品との縁ということなら、Aプロ(現シンエイ動画)の「空手バカ一代」に関わっている。大山倍達の手刀瓶切りなどの実写フィルムを撮影して、アニメの中に挿入するという手法を試した。
最終回の作画監督は小松原一男に任された。アニメーターとしての経歴は東映動画からスタートしているが、すでに独立していて「タイガーマスク」には協力という形で参加している。東京ムービーで「巨人の星」の動画も描いていた。第6話「恐怖のデスマッチ」で作画監督になった。この回に登場するブラックパイソンのキャラクターデザインは、木村圭市郎に修正されてしまったというが、木村のデザインしたタイガーマスクを、小松原は少しずつ変化させていった。描線を増やして立体的になった顔は、虎でもなくマスクでもなく、まったくタイガーマスクとして完成した。人々の記憶には小松原の顔が残ることになる。最終回には、思いを込めて普段よりセルを2000枚以上多く使ったという。小松原は、この後、「デビルマン」「ゲッターロボ」「UFOロボグレンダイザー」「銀河鉄道999」など、日本のテレビアニメーションの主流を牽引して行く。木村圭市郎は道楽と言ったが、小松原は、職人という言葉を好んだ。小松原が職人と言うとき、そこには、自分の技術力への矜持と共に、揶揄がある。テレビアニメを描き続けるかぎり、ただの画工に過ぎないのだ。ヒットした作品は、永井豪の原作であったり、松本零士の原作であったりした。作画監督小松原の名が世に知られることは無い。また、スポンサーと東映の意向によって企画された番組であり、小松原の意思が反映されたものではない。
昭和56年国際映画社制作の「銀河旋風ブライガー」というロボットアニメがある。企画書を作る前に、小松原にキャラクターデザインが委嘱された。小松原一男の絵からスタートした番組だった。さらに、脚本が仕上がる前に、オープニングが発注される。受けたのは金田伊功。小松原がデザインしたキャラクター達が縦横無尽に飛び交うスピーディーなオープニングが出来上がった。金田の名を高からしめたこのオープニングは「タイガーマスク」を意識していた。金田が誰よりも尊敬する男が、木村圭市郎だったのだ。ノリだけで始まったような「銀河旋風ブライガー」は、「銀河烈風バクシンガー」「銀河疾風サスライガー」と続く。このシリーズが小松原一男の代表作かも知れない。
手塚治虫が東映動画に嘱託として招かれたとき、石森章太郎と、もう一人、月岡貞夫という人物を連れて来た。小松原一男は、「狼少年ケン」の仕事で、この人に鍛えられた。月岡は、伝説になるほど絵を描くのが速くて、上手かった。月岡貞夫が低賃金に甘んじている以上、他の者も給料について文句が言いにくかった。これもまた、手塚がアニメ業界に残した罪科の一つか?
音楽は菊池俊輔だった。昭和残侠伝シリーズなど、東映作品を中心に映画の劇伴を数知れないくらい作曲してきた人である。音楽というよりも映画が好きだったらしい。青森県弘前市出身。東映動画プロデューサー斉藤侑と同郷のよしみで、「宇宙パトロールホッパ」に続いて「タイガーマスク」を手がけることになった。「宇宙パトロールホッパ」は番組としても作品としても評価がなされなかったが、自分の作曲した主題歌を近所の子供が歌っているのを聞いたとき、初めて体験する種類の喜びを感じた。ウェスタン音楽を基調にしたという「タイガーマスク」でも同様の体験があった。そして「仮面ライダー」である。町中から「レッツゴー!ライダーキック」が聞こえてきた。以後、仮面ライダー全シリーズの主題歌及びBGMを作った。この偉業で、「ゴジラ」の伊福部昭、「ウルトラセブン」の冬木透の如く特撮音楽家の系列に数えられてもよいのだが、菊池俊輔の膨大な仕事量は、特撮ファンによる独占を許さない。アニメ音楽のジャンルにおいても第一人者なのである。「ゲッターロボ」「UFOロボグレンダイザー」のような「タイガーマスク」の系譜に連なるアクションものは菊池の独壇場であり、さらに範囲は「ドラえもん」(シンエイ動画)にまでおよぶ。「長七郎天下御免」「暴れん坊将軍」などの時代劇ドラマもあれば、「キイハンター」「Gメン75」といった刑事ドラマもある。岡崎友紀や山口百恵の主演する大映ドラマで菊池俊輔の名前を知った人もいるだろう。菊池自身がインタビューで語っている会心の仕事は、フジテレビのドラマ「砂の器」。
音楽の良否の判定は主観的な部分が多く、文章で表すことに適しないのだが、アニメ映像「タイガーマスク」において、主題歌とBGMが占める役割は大きい。虎の穴が暗躍するとき背後に響く不気味な音楽。ちびっこハウスの場面に流れる明るいメロディー。主題歌のアレンジとともにタイガーマスクは反撃を開始する。エンディングは切ないバラードだった。作品的成功と、高視聴率という数字上の成功に果たした菊池俊輔の功績は、作画にあたったアニメーターの仕事に拮抗するとは言えないか。菊池が音楽を担当してもヒットしなかった番組も、勿論ある。一例を挙げるなら「タイガーマスク二世」である。これをどう考えればよいのかわからないが、「タイガーマスク」の音楽に菊池俊輔があったことは幸運であった。
第58話「ブラックV」のラストシーンに黒人挽歌がBGMとして使われ、おおいに効果を上げていた。これは菊池俊輔の作曲した音楽ではないが、「タイガーマスク」というアニメ番組が、ただごとならざる作品に進化していく予感を抱かせた。
第1話の脚本は辻真先であった。昭和7年愛知県名古屋生まれ。子供の頃から漫画が好きだったという。NHKの局員時代に演出を担当した子供向けドラマ「ふしぎな少年」の漫画連載を手塚治虫に依頼したこともある。アニメ脚本家としての経歴は、まさに「鉄腕アトム」からである。東映動画作品では「サイボーグ009」からその名前が見える。「巨人の星」も書いている。辻真先が書いていないテレビアニメを探すほうが難しいとも言われているくらいだ。それでも「サザエさん」第1回の脚本が辻真先だという事実には感嘆せずにいられない。とりあえずは書くのが速かった。東映動画「デビルマン」の原作者は永井豪だが、実際はテレビ先行企画だった。原作者永井の役目は毎週登場するデーモン族の妖獣をデザインすること。永井の仕事場へ出向いた辻は、永井がスケッチブックに描く絵を見ながら、同時にストーリーを組み立てていく。その仕事の仕方を見た永井は、同じ作家として「天才」としか言い様がなかった。永井豪自身、世界中にファンを持つ天才である。
「タイガーマスク」から辻真先の全体像や作家性を語ることは無理がある。その逆も無意味なのだが、敢えて第1話「黄色い悪魔」を見てみる。原作漫画のファーストシーンは、ニューヨークのマジソンスクエアガーデン。タイガーマスクは観客の大ブーイングを浴びている。しかし、テレビアニメは、羽田空港へタイガーマスクが降り立つシーンから始まる。アメリカでの悪逆非道ぶりは、待ち受ける外人レスラーの口から語られる。芝居の台本で、ナレーションの代わりに、通行人に噂話をさせてストーリーを説明させる手法である。実写ドラマならば、ニューヨークでロケをしたり、外人のエキストラを集める必要があり、子供番組の予算では不可能である。しかし、アニメなのだから、その利点を活かし、アメリカのシーンから始めてもよかったのだが、辻は急いだ。第1話の中に基本設定を詰め込もうとした。タイガーマスクは虎の穴出身のレスラー。黄色い悪魔とまで呼ばれるが、子供には優しいこと。さらに、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らが実名で登場する番組の売りを伝え、Bパートは、ちびっこハウスから始めて、ルリ子がタイガーマスクと伊達直人のイメージを重ねるところまで書ききってしまう。
全105話を見終えた後に、この第1話を見ると、展開の早さが惜しい。タイガーマスクの登場から、来日までの経緯は、話数を使ってじっくり書かれるべきであった。ただし、これは結果論である。ライターである辻も、プロデューサー、テレビ局も、「タイガーマスク」が二年間も続く人気番組になるという確信は無かった。ましてや40年後まで記憶されていようとは、夢想だにしなかったであろう。辻真先が「タイガーマスク」に付加したものは少なく、無視できる範囲の功績である。
脚本家で一人注目しておきたいのは、第45話から参加する柴田夏余。脚本陣の中でただ一人の女流である。第45話「望郷の少年」(シナリオタイトル「祖国は魂の中に」放映リスト参照)にローザという娘が登場する。重要な役柄ではないが、ローザは「タイガーマスク」に登場する成人女子としては、若月ルリ子に次いで二人目の、名前のあるキャラクターだった。ここまで女中や看護婦など大勢出て来たが、名前がつけられることがなかったのである。第47話でもエミリーというキャラクターを創造する。これは白人レスラーと結婚した黒人女だった。第50話「此の子らへも愛を」では広島に投下された原子爆弾にふれる。この回については後述する。第54話はちびっこハウスに新しく入所した少女が登校拒否をするため、ルリ子が苦労する話。柴田夏余によって男児向けアクションアニメのディティールが書き込まれていく。
柴田夏余を得たことで若月ルリ子の意味が変化した。梶原一騎の原作からここまで男達によって書かれた若月ルリ子の配置は、戦うレスラーの対極にあって、天使か聖母のような理想像を演じることだった。しかし、柴田の書くルリ子は、同級生の結婚式に呼ばれ、帰り道にしょんぼりと肩を落として歩く生身の女だった。ルリ子の願いは、虎の穴の壊滅でもなく、世界チャンピオンでもなく、伊達直人との結婚だったのだ。梶原の原作でも、その結末をにおわせる描写はあったが、もとより選択肢には入らない。しかし、柴田ルリ子にとっては、この目的はちびっこハウスの存続よりも大事だった。
辻真先の「サザエさん」第1回に話を戻す。原作とアニメでは、テイストが違う。長谷川町子の漫画はワカメの視点から世界を見ているが、辻はこの視点をカツオに変えている。このことでアニメ版「サザエさん」は少年ドラマの雰囲気が占めるようになり、中年主婦が主人公のアニメでありながら広汎な視聴者層から支持を獲得するに至った。辻の判断が正しかったことの証明とも言えるが、辻真先としてはそういうやり方しかなかったのではないか?
「巨人の星」には姉の明子をはじめ、何人かの記憶に残る女が登場したが、水島新司の「ドカベン」には山田の妹と岩鬼の夏子はんしか登場しない。これが、ちばあきおの「キャプテン」になると全く女が出ない。スポーツ漫画がリアリティーを追求するとこういう結果になるのだろう。この傾向は歴史小説にもあてはめられる。主人公の行く先々に類型的な女を用意するのは、司馬遼太郎の常套手段だが、明治以降の資料と記憶が残っている時代が舞台になる「翔ぶが如く」や「坂の上の雲」には、その類の女が出なくなる。やはり、水島新司の「野球狂の詩」の一編に里中満智子が協力した合作がある。「スラッガー10番」というサブタイトルで、腱鞘炎になり投手から打者に転向するためにあがく男を水島が描き、その婚約者を里中が描いた。里中の描く女の心情はさすがに説得力があった。(里中満智子とは里中智のネーミングの由来となった少女漫画家)司馬、水島ほどの作家でも本物の女は書けないのだ。
さて、柴田夏余がタイガーマスクに最後に残した脚本は、第102話「虎の穴の真相」。柴田は若月ルリ子を情念の人として行動に走らせた。ルリ子はタイガーマスク=伊達直人の投宿するホテルと、ルームナンバーをつきとめる。もちろん、原作漫画には無い展開である。ルリ子はタイガーマスクを待ち伏せ、計略をしかけて、追いつめる。ついに観念したタイガーマスクは、その虎のマスクを脱ぐ。タイガーのマスクを脱がせるのは、若月ルリ子とタイガー・ザ・グレートだけである。もう一つのクライマックスだった。かりに、この後のタイガー・ザ・グレート戦が凡戦に終ったとしても、作品は傑作として完結する。若月ルリ子は、一切の特殊能力を持たない市井人ながら、アニメ史上に残るヒロインになり得た。脚本家柴田夏余の作劇法については、各話の検証とともに分析していく。
追記 アニメ「ジャングル大帝」(手塚治虫原作・製作虫プロダクション)第9話に、背中に鷲の翼を移植された虎が出て来る。ウィンガーというこの人工生物が崖頭で咆哮する構図は、まさに木村圭一郎が作った「タイガーマスク」のメインタイトルそのままである。放送日を確認したところ昭和40年12月1日。講談社月刊ぼくらに「タイガーマスク」第1回が掲載されるのが昭和42年12月。この間に作者、編集者ら、タイガーマスクの企画スタッフが、ウィンガーの姿を見た可能性は否定できない。いま一度、原作漫画を見てみると、虎の穴の魔神像が描かれるのは赤き死の仮面編からだった。時期は昭和44年8月ごろ。10月から放送開始のアニメ版「タイガーマスク」の準備は完了している。原作者梶原および辻なおきとの打ち合わせの中で、魔神像のデザインはアニメ美術側から提案されたのではないか?東映動画のスタッフなら確実に「ジャングル大帝」を見ている。その第9話の脚本が辻真先。本項で、辻の「タイガーマスク」への貢献度は無視できると書いたが、撤回する。辻真先が翼の生えた虎のイメージを導入したのだ。
タイガーマスク=伊達直人の声を演じたのは、富山敬だった。昭和13年満洲で生まれた。昭和20年8月15日をもって、在満邦人は征服者の地位から敗戦難民に堕ちた。内地を目指す逃避行が開始される。母親が泣き声を上げる乳児を窒息死させなくてはならない極限状況だった。殺されずに、現地人に売られた子供の運命も悲惨だった。広い大陸を、命からがら歩き通し、ようやく大連港までたどり着けた日本人の群の中に少年富山敬はいた。
昭和50年代にアニメブームが起こった。円谷英二の死とともに、日本の特撮機構は解体していた。アメリカが巨額の製作費を投入して宇宙SF映画を作り始めたが、日本はこれに抗うにも、設備を棄却していたのだ。そのときに「宇宙戦艦ヤマト」が登場する。壮大なスケールで描かれる宇宙戦争映画だった。「宇宙戦艦ヤマト」の陣頭指揮にあたったのは、漫画家松本零士。独自にアニメーション技術を研究していた人だった。宇宙空間を表現するために使った、深い青色の絵具も松本が選んだ。「宇宙戦艦ヤマト」は10代の少年少女から熱狂的な人気を集めた。この世代がアニメブームの中心層である。テレビアニメで育った世代が発言力を得たのだ。日本文化の中で、または日本の産業の中で、アニメーションが端倪すべからざるレベルに到達していたことを大人達に訴えた。作品として正当な評価を与える一方で、アニメファンは活躍するキャラクターに憧れた。しかし、アニメの登場人物は肉体を持たない。ファンの想いは声優に向けられた。「宇宙戦艦ヤマト」の主人公古代進の声を演じたのは、富山敬である。アイドル的にまつりあげられたが、富山自身はすでに三十を越えていた。
アニメブームが続く昭和54年。円谷プロは「ウルトラマン」をアニメ化した。「ザ★ウルトラマン」。この作品にオリジナル「ウルトラマン」でイデ隊員だった二瓶正也が、トベ隊員という役で出演した。声優の仕事は初めてだった。二瓶が富山敬と共演するのも初めてである。富山の役は主役のヒカリ隊員。自身俳優である二瓶の目に映る富山敬は「神様」だったと回想する。富山は録音スタジオへ来て、初めて台本に目を通す。その役柄を完璧に演じ終えると、台本を置いて、次の仕事場へ向う。神秘的なエピソードである。
ちびっこハウスの健太の声を演じたのは野沢雅子だった。昭和11年生まれ。富山敬より年上である。テレビ放送開始時、ソフトが不足していたテレビ局は、アメリカ製のドラマを輸入して放送していた。音声部分は日本語に吹き替えるのだが、子役は労働法上時間的規制があるため使いにくかった。局員の一人が、女優の声帯で代用することを思いつく。その実験に使われたのが野沢雅子の声だった。少年の声を演じて野沢が日本一という言い方は、歴史的客観的事実なのだ。
健太は、プロレスに詳しいやんちゃな少年。作品と読者(視聴者)を仲介することがその役目である。実写ドラマに添え物的に出て来る子役のような存在である。その健太が野沢雅子の声を得たことで、瑞々しい少年像に仕上がる。梶原一騎は子供向け作品を書くとき、意識的に主人公の弟分のような子供を配置する。年少読者の自己投影の場として用意しているのだが成功例は少ない。アニメの健太は視聴者の感情移入で、もう一人のヒーローの位置にまで昇華していた。劇中のキザにいちゃんの言葉を借りるなら「ちびっこハウスにその人ありと言われた健太くん」である。
キザにいちゃんこと伊達直人の立脚位置を相関図で整理すると、ストーリーの裏で健太が担っていた重要な役目が見えてくる。ルリ子は、タイガーマスクの正体が伊達直人であると確信し、そのことを白状させる機会を伺っている。プロレスをやめさせようとしている。この物語を終らせようとしているのだ。自由で無責任なキャラクターでいられる。その責任は実は健太が被っていた。大のプロレス好き。就中、タイガーマスクの大ファンである。タイガーマスクに頭をなでられたり、伊達直人とサッカーをしたりして肉体も接触させている。それでありながら両者の同一性に気付かず、タイガーマスクを「神様」と崇め、伊達直人を「キザにいちゃん」と軽視する。物語の約束を固守していたのだ。ルリ子の存在意義が回を追うごとに成長していったのに対して、健太のキャラクターは不易だ。シリーズ中盤になっても、あいかわらずちびっこハウスを脱走して、プロレス会場へ応援に行っていた。損な役回りだったともいえる。しかし、初期設定を守り、物語を支え継続させていたのが健太だったのだ。
野沢雅子は「タイガーマスク」と前後して「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎を演じている。この作品は東映動画の宝物になった。平成20年、より原作に近い形でリメイクされた「墓場の鬼太郎」でも野沢が鬼太郎を演じている。さらに健太とほぼ同時期(昭和45年から47年)「いなかっぺ大将」風大左衛門をやっている。あのスーパー小学生の声が年輩婦人だったとは想像もできなかった。大ちゃんが野沢の代表作だろう。「ドラゴンボール」の頃になると、野沢雅子その人の存在が有名になり過ぎたため、文楽の人形遣のような立場に思えてくる。はっきりさせておかなければならないのは、野沢の声は実際の少年の発声法ではないということである。本物の少年の声には野沢のようなハリは無い。かなり特殊な至芸なのだ。少年の声は、かく演ずべしという方法論を確立させた部分でも、やはり野沢雅子は第一人者なのである。
富山敬の仕事の中に「UFOロボグレンダイザー」の主人公デューク・フリード役があることに気付く。「マジンガーZ」「グレートマジンガー」に続くマジンガーシリーズ第三弾である。前二作の音楽が渡辺宙明だったことに対して「グレンダイザー」の音楽は菊池俊輔。菊池はこの作品で賞を取っている。演出に勝間田具治の名がある。後半は、小松原一男が総作画監督になった。富山が主役の声を演じたことも含めて「タイガーマスク」と繋がりの深い作品である。マジンガーシリーズは「グレンダイザー」をもって一旦終る。後番組は「惑星ロボダンガードA」。これもロボットアニメだったが、原作者に松本零士を冠した。東映動画は永井豪に代え、松本零士との関係を深めるようになる。「宇宙海賊キャプテンハーロック」「銀河鉄道999」どちらも好評を得た。小松原一男は松本アニメの作画監督として、知られるようになったのだ。徳間書店の研究誌「アニメージュ」昭和55年3月号は、小松原一男を取り上げ、その原点として「タイガーマスク」の仕事を分析している。昭和50年代の「ハーロック」「999」よりも、昭和40年代の「タイガーマスク」あるいは「鬼太郎」の方が絵が丁寧に見えるが、これは錯覚ではない。アニメブームによる大量生産で製作体制に無理が生じてきたことと、動画を韓国や台湾に下請けに出し、人件費合理化を始めたことが要因である。ちなみに、このアニメージュ3月号の巻頭特集は「機動戦士ガンダム映画化案」。辻真先の巻末エッセイがこの号で最終回。テレビアニメを牽引してきた張本人が、アニメブームを歓迎しながらも、疑問を呈している。
「タイガーマスク」に出演した声優については、作品分析の中でふれていくつもりだが、日本のテレビアニメ草創期にその人材が充実していたことが不思議なのである。そして、アニメブーム以降に登場する声優が技倆、個性ともに先人を超えない理由も不可解である。
イギリスのランカシャー地方に実在したビリー・ライレージムは、そのトレーニングが厳しかったことと、ファイトスタイルが執拗であったことから「蛇の穴」と呼ばれた。なぜ穴(pit)かというと、所在地のウィガンが炭坑の町だったからである。カール・ゴッチ、ビル・ロビンソン、ダイナマイト・キッドらが、卒業生である。梶原一騎は、この「蛇の穴」をもじって「虎の穴」としたのであるが、名称としてなら、数段こちらが優れている。日本人ならば「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ということわざをすぐに連想する。虎の穴に入らなければタイガーマスクの力を得られないのだ。「蛇の穴」は、力自慢の炭坑夫ビリー・ライレーが始めたのだが、やがて、カール・ゴッチのような理論家を輩出するように理想的な方向に進んだ。
かたや、梶原の「虎の穴」は原始的な戦士育成法から進まない。伊賀の里では、忍家に生まれると、幼年期から猛特訓を課せられた。また、現在の奈良、和歌山方面へスカウトを放ち、素質のありそうな子供を買ったり、あるいは誘拐していたという。超人になることを要求されているのだから、子供は訓練課程でほとんど脱落する。つまり死ぬ。訓練すなわち選別なのだ。梶原がイメージしたであろう日本の忍者教育を例に上げたが、戦士の育成法は地球上共通であった。部族の存続には、子供の死を計算に入れねばならないのだ。だが、子供にとっては、深刻な恐怖である。「タイガーマスク」は子供に読ませる漫画である。故に虎の穴は悪と定義される。年少読者にとっては、悪役レスラーを専門に育てるから悪の組織という解釈でも十分である。しかし、プロレス界の内情に精通する梶原は、虎の穴が何故悪役レスラーを専門に育てるのかという理由も説明している。正統派レスラーよりも、悪役の方がファイトマネーの額が高く、また需要が多いのだという。強引なまでの説得力である。「空手バカ一代」に描かれる実在人物グレート東郷は、反日感情を逆用して、悪役レスラーを演じる。リングに登場するだけで罵声を浴び、反則ばかりやったあげく、最後は正義のパンチで血だるまになる。そして、ロサンゼルスに大豪邸を建てて住んでいる。グレート東郷と虎の穴レスラーの違いは、東郷が血だるまになってマットにのびるのに対して、虎の穴レスラーは、相手を血みどろの半殺しにしてしまうことだ。
タイガーマスクは虎の穴で10年間教育を受け、タイガーのリングネームを与えられるほどの成績で卒業試験を通過した。辣腕ミスターXのマネジメントでデビューし、アメリカで大成功をおさめる。そして、来日した。なお、虎の穴出身者は、ファイトマネーの50パーセントを生涯、上納し続けなければならない。悪役に徹することに加えて、これが掟である。日本に帰ってきたタイガーマスクは、彼が育った孤児院が再開されていることを知る。伊達直人として訪問すると、再び運営困難になっていて閉院寸前。直人は、暴力団赤沼組に渡っていた手形を買い戻す。このことで、虎の穴へのロイヤリティーが果たせなくなった。虎の穴は当然、タイガーマスクを重大な反逆者と看做す。やがて正義と悪の戦いともいうべき、壮大な図式に昇華していくのだが、きっかけは、実に世間的なことだったのだ。アニメ「タイガーマスク」の放送局だった日本テレビの番組「スター誕生」でデビューのきっかけをつかんだ山口百恵は、芸能活動で得たギャラの50パーセントを生涯日本テレビに上納する契約だった。さらに半額から50パーセントを所属事務所ホリプロが取った。山口に渡されるのは、元の25パーセントということになる。山口はこの呪縛から逃れるために芸能界から引退した。芸能界のこの事例を思うと、10年もかけて育成した選手から、50パーセントの報酬を取ることも法外とは思えなくなる。むしろ、選手側からこれを拒否されたら運営が不可能になるのではないか?
タイガーマスクは、自分のような孤児を誘拐し、死の特訓を課す虎の穴を恨むようになる。この恨みを闘志の根源に変えた。しかし、これは出自を断つ戦いであった。史実に例えるなら謀反であり、宗教の派閥闘争である。勝った方が正義になる。タイガーマスクを殺しに来る刺客は、かつての同期生であった。極限の肉体訓練を共に耐え抜いて兄弟以上に強く結ばれた友であった。ときには、尊敬するコーチであった。両者の間に感情的対立は無い。互いにシンパシーさえ覚えながら、死ぬまで戦うのだ。自分を作った組織と戦うという構図は、続く東映作品「仮面ライダー」「デビルマン」でも使われる。人間の戦いの本質が、その設定の中にあったのだ。
謎の巨大組織虎の穴の全貌は、次第に具体的になっていくのだが、現実的に見えるちびっこハウスは、あやふやな部分を残した。作品中に語られるちびっこハウスの事情は以下の如し。初代院長が私財を抛って運営していたこの孤児院は、10年前、資金難で閉院。しかし、その長男が土地建物を買い戻し、再開した。10年というのは、ざっくりした時間だが、虎の穴のレスラー養成年限と一致する。10年前のラストシーンに描かれる初代院長は、現在時間に登場しない。伊達直人が虎の穴を卒業して訪問したとき、またも資金難で閉院は決定事項という状態だった。伊達直人不在の10年間の経緯が一切語られない。所在地や収容規模などのデータが明確でないことも不満だが、この項のこの段階では追求しない。以下の、二つの疑問点だけ提示しておく。
10年前に閉院するときのこの施設の名称は「ちびっこホーム」であったが、アニメでは「ちびっこハウス」になっている。過去と現在のつながりを明快にするため、アニメスタッフが意図的に変更したものと考えられる。問題は「ちびっこ」という言葉である。これは昭和40年代に造られた新語である。児童幼児を包含する。教育評論家阿部進が造った新語ではなかったか?孤児院を再開するにあたって若い兄妹が新語を名称に取り入れたと考えるのは、自然だが、先代院長の時代は無かった言葉なのである。ちびっこホームの閉院は昭和33年。開院は昭和20年代と推定される。リアリティーを削ぐ部分である。阿部進は魁偉な容貌から「怪獣カバゴン」と呼ばれた。実際、怪獣化してスペクトルマン(ピープロ製作)に退治された。くだらない人間の作ったくだらない新語だった。
いま一つの謎は、現院長に名前が無いことである。妹には、月光のように清しく美しい娘という意味を込めて、原作者より、若月ルリ子の名が贈られた。院長はその兄であるから若月というだけで、このキャラクターを象徴する名前がつけられなかったのだ。収容児からは「若月先生」と呼ばれている。ルリ子は「兄さん」としか呼ばない。少年時代を知る伊達直人もついに名前で呼ばなかった。タイガー・ザ・グレートやミスターXならば、経歴を空想することが出来るが、難儀なことに若月先生には、空想の余地が少ない。十年前に成人していなかったことは判っているので、30歳以下の日本人男子である。子供を叱ることもあったが、性質は温厚である。知能も低くないと思われる。しかし、どうやって施設の土地建物を取り戻したのかが解らない。現在も子供の世話はルリ子に任せているようで、普段の業務が不明である。
ところがどっこい、非常に重大な人物である。若月が施設を再建するために無計画な借金をしたことから、やがて、大勢の人間が殺し合いをすることになるのだ。伊達直人が借金を肩代わりしなければ、多くの同門や、ミスターXも死ななくてよかったのだ。実は、物語の元凶がこの人物であることに気付かせないために、若月を無欲で存在感の薄いものにしなくてはならなかったのだ。作者と脚本家は、このタブーを韜晦するために、タイガーマスクの怒りの矛先を虎の穴以外の対象に向けさせようとした。公害、差別、貧困などの社会問題を扱うエピソードを挿入し、この世の諸問題諸悪の一つが虎の穴であり、きっかけはどうあれ、かたづけなければならない組織であるよう見せたのだ。一方で、タイガーマスクは技術向上と達成感に喜びを見出す一人のスポーツマンであるという一面も強調し、孤児の援助のためだけに戦っているのではないことも書いた。
若月がいなくても、ちびっこハウスの物語を描くことは可能だったのだが、その場合、罪は物語のヒロイン・ルリ子一人が背負ってしまう。ルリ子は、ちびっこハウスの借金のために死んでいった男達がいたことを最終回直前に知るが、この不思議な兄の存在によって現世での贖罪がゆるされるのだ。
物語の幕開けにあたって、梶原一騎は、読者に最高のシートを用意する。ニューヨーク、マジソンスクエアガーデンのリングサイド。会場は満席。観客の目当てはメーンエベントに登場する悪役レスラー。黄色い悪魔タイガーマスク。全米マットを荒し回るタイガーマスクがやられる瞬間を期待しているのだ。対戦相手のハリケーン・ヒルはすでにリングの上にあって、観客をあおっている。タイガーマスクはリング下のエプロンからこっそり現れる。ヒルの足首をつかんで引き倒すと、そのままコーナーポストの鉄柱にかけ登る。超満員の客席からすさまじいブーイングが、タイガーマスク一人に浴びせられる。やじの中には、有色人種を蔑視する言葉も混じっている。
タイガーマスクは、大観衆をにらみつけ、憎らしさをアピールする。罵声の大きさがそのままドルになることを計算しているのだという。しかし、読者としては、戦争に負けて二十余年。よくも悪くも、これほどの注目を集める日本人がアメリカに存在することを誇りたくもなってくる。ただ、東映動画プロデューサー斉藤侑は、アニメ化にあたって躊躇した。大悪人を主人公にすることに不安があった。テレビアニメ第1話「黄色い悪魔」では、マジソンスクエアガーデンのファーストシーンは描かれない。ハリケーン・ヒル戦は、タイガーマスク来日第3戦として原作通りに展開する。
伊達直人がちびっこハウスの金銭的苦境を知り、虎の穴から処刑宣告を受けるまでの成り行きはアニメの方が丁寧に描いている。原作では、謎の人物として、いきなりちびっこハウスに現れる。これはこれで不自然な演出ではない。アニメでは、アントニオ猪木,タイガーマスク対ジャック・ブリスコ,バロン・シクルナ戦の会場に忍び込んだ問題児健太を追って、リングサイドまで来たルリ子の姿をタイガーが見つける。この女が若月ルリ子だとするなら、保護された少年はみなしごではないか。ここから想像を広げたタイガーマスクは、翌日、かつてちびっこハウスがあった場所を訪問する。伊達直人は、ちびっこハウスの借金を肩代わりしたことで、結果的に虎の穴の掟を破る。連載漫画では、一回分の話だが、アニメはこの部分を4週かけて語った。
さて、アニメ版「タイガーマスク」では、外人レスラーは偽名で登場させるのが原則だった。ブラッシーならブランチー、ルー・テーズならルー・ケーズというように微妙な配慮がなされていた。ところが、第2話でのジャック・ブリスコとバロン・シクルナだけは、実名である。考えられるのは、第1話のハリケーン・ヒルが架空のレスラーだったので、ジャック・ブリスコとバロン・シクルナも架空のレスラーだと思ったのではないか?アニメスタッフはプロレスに詳しくなかったのだ。バロン・シクルナは現物の面影を残していたが、ジャック・ブリスコについてはまったくキャラクターデザインが変わっている。原作漫画には二度と登場しないジャック・ブリスコだが、アニメでは本人を知らないスタッフの手で、別の人生を歩み始める。ジャック・ブリスコを確認しなかったことは、アニメスタッフの重大な落ち度であったが、主人公以外のキャラクターのその後がフォローされるのはアニメ版の優れた部分である。
羽田空港にジェット旅客機が着陸する。待ち構える新聞記者。タラップに現れたのは覆面レスラー。69人のレスラーを病院送りにしたというブラックパイソンである。この男こそ、虎の穴がタイガーマスクに差し向けた一人目の刺客であった。このとき、大騒動が起こる。インドから上野動物園へ移送中のトラが檻から脱走したのだ。興奮して走り回るトラの前に立ち塞がったのは、ブラックパイソンだった。トラは、獣の本能で、この人間が自分より強いことを察知し、おとなしくなった。
このトラは、ブラックパイソンによって記者会見場まで引きずっていかれ、そこで殺されるのだが、「タイガーマスク」では、レスラーの強さを証明するために、よく猛獣がひきあいに出される。虎の穴の訓練では、日常的にワニやクマと戦わされるし、卒業試験ではライオンかトラを殺さなければならない。専門家ではない梶原一騎が、動物のスペックをどこまで知っていたのかも疑問であるが、一般的な日本人はライオンやトラの本当のサイズも知らない。ブラックパイソンのチョップで死んでしまうトラを見て、子供はその程度のものかと思ってしまう。レスラーの強さを誇示することに効果は上がらなかったようだ。ただし、レスラーが猛獣に勝てないようでは「タイガーマスク」の世界は崩壊する。
素手で動物と戦うということなら、大山倍達という権威がいる。著書「大山空手もし戦わば」には、武器を持った相手との戦い方に加え、各種動物との戦い方が書かれている。牛には完勝した著者だが、熊との決闘は警察に中断させられた。しかし、後年、梶原一騎と組んで製作した映画「地上最強のカラテU」の中で、弟子のウィリー・ウィリアムスをハイイログマと戦わせ、これを殺させている。漫画を漫画のままで終らせないのが、この二人のやり方だった。さて、アニメでのタイガーマスク対ブラックパイソン戦は、第6、7話と二週にわたって描かれるが、その第6話のサブタイトルが「恐怖のデスマッチ」。現在からの感覚では、何のひねりも無い題名に思えるが、この時点では、日本においてデスマッチが行われたことは無かった。初めて知る言葉だったのだ。なお、日本初のデスマッチは、昭和45年10月8日に国際プロレスで行われた。ラッシャー木村の名前を有名にした、金網デスマッチである。「恐怖のデスマッチ」が放送されたのが、昭和44年11月6日。直後と言ってもよい。国際プロレスはテレビ漫画「タイガーマスク」を参考にしたのではないか。ここでも漫画が現実を動かしている。
タイガーマスク対ブラックパイソン戦は、日本で初めて行われる虎の穴レスラー同士の試合である。形式は、リングの周囲を鉄柵で囲んだアフリカンデスマッチ。テレビ中継はあるが、日本プロレス協会はデスマッチを否定しているため、関与しない。これまでの対戦相手は、一方的な反則殺法でタイガーに圧倒されてきたが、虎の穴卒業生のパイソンは、反則合戦で対等にわたりあう。凶器を奪い合い血みどろの死闘の果て、パイソンのマスクをずらし、ロープにはさんだタイガーは、いつも通りなぶり殺しにかかる。
ここでリングサイドに、健太とルリ子が現れる。アニメでは、第1話から登場し、プロレス会場に潜入するのは二度目の健太だが、原作では、この場面が初登場なのだ。鉄格子をつかんだ健太は、タイガーマスクに声援をおくる。タイガーマスクにシンパシーをおぼえる理由として、自分はどうせみなしごだから、反則で世の中を強くずうずうしくわたっていくつもりであると言う。そこでルリ子は鉄柵内のリング上にいるタイガーマスクに懇願する。この少年は、間違った道に進もうとしております。世の中とはそんなものではない。苦しくとも真面目に生きなければならないと、あこがれのあなたから教えてやって下さい。ルリ子は、タイガーマスクが伊達直人であると思って頼んでいる。かなり長いシークェンスである。この間、パイソンはロープにはさまったまま動かない。試合中の選手に観客の話を聞く余裕があるのか?不自然にして強引な作劇法である。梶原一騎はスポーツ物を得意としながら、リアリティーを偏重しないのだ。そして、タイガーマスクは決心する。反則を捨てて、正しい技のプロレスラーとして生き抜こうと。ただし、今後も殺し屋レスラーが次々に襲いかかってくるなら、死期は早まるだろう。タイガーは、パイソンをロープからはずしてやる。あいかわらず凶器で殺しに来るパイソンを正統技バックドロップで仕留めた。
展開は、アニメと原作に大差が無い。だが、ブラックパイソンのキャラクターデザインが変更されている。原作では、黒マスクの白人だが、アニメでは、白マスクの黒人になる。そして、試合中は黄緑色のランニングシャツを着る。変な配色に見えるが、当時の家庭受像機が16インチ程度の白黒画面であったことも考慮されていた。また、カラー受像機についても色彩を完全に再現することは難しかった。その前に、セル画を撮影するフィルム特性の問題もあった。「タイガーマスク」が技術的制約の中で作られていたことも覚えておかねばならない。
原作漫画では、ブラックパイソンがやられると、すぐにゴリラマンが送り込まれてくるのだが、アニメでは、第8話「虎の穴の罠」というエピソードが挿入される。ミスターXが三人の殺し屋を使って伊達直人の暗殺を企てる話である。伊達直人がちびっこハウスの借金を肩代わりしたとき、虎の穴を裏切った者は、虎の穴レスラーによってリングの上で公開処刑されるのが掟であると伊達直人と視聴者に説明したのは、元担当マネージャーミスターXだったが、離叛者を本当に殺そうというのなら、芝居がかった方法より、暗殺が手っ取り早いことはわかる。リングの外でも油断ができない伊達直人の生活を見せることで、物語にさらに緊迫感が加わる。しかし、裏切り者を生かしたまま、デスマッチで公然と殺すという方法にリアリティーが無いとは言えない。「セブン暗殺計画」でガッツ星人は、セブンが普段は地球人の姿で生活していることをつきとめる。すなわちモロボシダンの状態で殺せば簡単ではないかという意見も出たが、ウルトラセブンとして捕獲し公開処刑する作戦を選んだ。これで、地球人から抵抗の意思を奪い侵略計画が迅速円滑に進むことを期したのである。リング上での公開リンチは、当事者は無論のこと、虎の穴の現役レスラーにとっても恐怖である。レスラーならば、暗殺されることよりも、リングの上で苦痛と屈辱の極限で殺されることを怖れる。その前に、討つほうも討たれるほうも、家族より強い絆で結ばれた卒業生同士なのだ。ブラックパイソンを返り討ちにした後、タイガーは、パイソンに同情し寂漠とした思いだけが残る。なお「虎の穴の罠」では、虎の穴と伊達直人の戦いにちびっこハウスを巻き込んでしまう場面がある。催眠術をかけられた伊達直人が、ピストルを持ってちびっこハウスに入ってきたり、殺し屋チームとのカーチェイスに若月先生が協力してハンドルを握ったりする。日常に非日常が混入するような違和感がある。たしかに、戦いの原因はちびっこハウスにあるのだが、それは、健太がタイガーマスクの正体に気付かないことと同じく、追求してはならない物語の約束なのだ。虎の穴はちびっこハウスに手を出してはならない。ちびっこハウスは伊達直人の精神世界に存在するものだからだ。芝居がかった悠長なリンチというのも、19世紀の組織虎の穴には似つかわしい。
第二の処刑執行人ゴリラマンは、太い鎖で繋がれ檻に入れられて貨物船で日本に上陸した。画面に描かれる身長はタイガーマスクと比較して約2倍。体重は300キロというから軽量級のタイガーの3倍である。格闘技スポーツの常識ではこの差は絶望的である。マネージャーXの説明によると、アフリカのジャングルでゴリラに育てられた人間を虎の穴が発見者から買い取ったという。そのゴリラとは、ライオンも八つ裂きにする凶暴なマウンテンゴリラという種類である……見世物小屋的な娯しみもプロレスの魅力の一面であるが、動物に興味のある現在の子供なら、マウンテンゴリラの身長が2メートル程度で、平均体重が150キロ、そして、同じ霊長類であるチンパンジーなどよりも、はるかに温和な性質であるくらいの知識は持っている。ここで、梶原一騎が山川惣治の絵物語「ノックアウトQ」に感銘を受けて、少年小説を書き始めたという経歴に思い当たる。山川惣治の代表作といえば「少年ケニヤ」である。テレビドラマになり、映画になり、アニメ化もされた。アフリカで孤児になった日本人少年の冒険物語である。サイ、カバ、ライオン、ワニ、そして、ゴリラ、息をつく間もなく、猛獣が主人公に襲いかかってくる。山川には、同様の設定の絵物語「少年王者」「少年タイガー」「少年バーバリアン」という作品もある。よほど熱帯地域の風土と動物に詳しいのかと思われていたが、本人はアフリカへ行ったことは無かった。梶原の猛獣観は山川の絵物語の範疇内にあったのではないか。
戦前の日本は、天然資源の豊富な南方に進出し国力を強めるべしという南進論をとなえ実際に南方に向って領土を拡張していった。また、国益とは別に、南の国に住む動物や未開の土人の習俗に対して、限りない想像力をかきたてた。少年倶楽部に書かれた南洋一郎の小説「吼える密林」、島田啓三の漫画「冒険ダン吉」などから、当時の雰囲気が伝わってくる。これらの作品から、ある共通項を発見した。類人猿については、オランウータンでも、チンパンジーでも猩々と書かれるが、ゴリラについてはゴリラと書かれているのだ。ゴリラの存在は日本人の共通知識として早い段階で定着していたことが判る。(ちなみに「冒険ダン吉」では、ライオンと表記されるが、「吼える密林」では獅子となっている)おそらく、日本では昭和8年に公開された米映画「キングコング」の影響だろう。世界中で大喝采を浴びた「キングコング」は、ゴリラとは巨大で凶暴な怪獣なのだとするイメージを、まさしく、世界に定着させたのだ。なお、戦後に書かれた山川の「少年ケニヤ」にも、南進論のロマンが感じられる。「モスラ」等の昭和の怪獣映画群もやはり南洋への憧憬が発想の根底にある。
ゴリラについてもう一つ、世界の人が誤った認識を共有していることがある。それは、顔である。映画に出て来るぬいぐるみのゴリラの顔は、三角形に近い形にデフォルメされ起伏が大きい。実際のゴリラの顔は、円形で平面的である。当然、ぬいぐるみの方がかっこいいので、人々はこっちが本当なのだろうと思い込んでいる。このゴリラの顔を造ったのは、日米の映画界で活躍した大橋史典さんである。ウルトラ怪獣で名高い高山良策画伯も現金収入を得る手段として、映画用のぬいぐるみの製作法をこの人に学んだ。日本のテレビドラマなら、「ジャングルプリンス」のゴリラのロボラ、「宇宙猿人ゴリ」のラー等が大橋さんの仕事である。このぬいぐるみを東宝映画に出て来るキングコングの顔と比較すれば、大橋さんの感覚の良さは一目瞭然である。その前に比較にならない。このことは、葛飾北斎が波涛の描き方を世界に示したほどの重大な影響なのである。
タイガーマスク対ゴリラマンに話を戻す。このエピソードから梶原一騎の作劇法と作家性が見てとれる。言葉すら理解しないゴリラマンに、虎の穴のコーチが仕込んだ唯一の技が肉弾メガトン落し。コーナーポストに登り、飛び降りるだけ。ただし300キロの体重がある。しかし、タイガーは、その程度の体重ならば、虎の穴の死の訓練で鍛えたブリッジで受け止めれるのではないかと考える。実際に新聞記者を集めての公開練習で、100キロのレスラー三人をその腹の上で受け止めた。その体勢でゴリラマン怖れるに足らずと豪語するタイガーマスクの上に、さらにジャイアント馬場が飛び乗った。ブリッジは崩れ、タイガーは首の筋肉を負傷する。これでブリッジ作戦は使えなくなった。また、マスコミの前で恥をかかされたことについてもタイガーは憤り、馬場を恨む。なぜ、よき先輩である馬場が、タイガーにブリッジをできないようにしたのか?読者に謎解きを提示しながらストーリーを進めていくのが梶原一騎のエンターティメントである。この答は、実際にゴリラマンが肉弾メガトン落しを実行したときにわかる仕掛けである。本当ならブリッジで受け止める予定のタイガーだったが、馬場に首を傷められているので、避けるしか方法がなかった。ゴリラマンはなんとリングの床を踏み抜き大穴を開けてしまった。タイガーはここでようやく、馬場がブリッジを潰してくれたことの意味を理解する。この重力エネルギーをまともに受けていたら即死していた。ゴリラマンは、自分が開けた大穴に挟まったまま身動きがとれない。圧倒的に有利になったタイガーであるが、ここでみなしご等のことを思い、踏みとどまる。「男というものは、相手の弱みにつけこむようなことは、どんなに苦しくてもしてはならないのだ。バカ正直と笑われようと、そのために、どんなに不利になろうと」タイガーは、ゴリラマンを穴から引きずり出し、正々堂々と試合を再開しようと促す。ここで獣人ゴリラマンが人の情けに泣く。そして、健太も感動する。「おれ、どんなえらそうなことが書いてある本よりも、どんな偉い人のお説教よりも、いまの試合からのほうが、男の子はどうやって生きたらいいかを教えてもらったぜ」作家梶原一騎は、少年に強く正しく生きていけと言っている。強いとは、ゴリラやウシも倒せるタイガーマスクか大山倍達ほどにも強くなるということ。正しいとは、他人に笑われバカと言われるほどに正しいこと。 次ページ→