ミラクル3へのリターンマッチには、ちびっこハウスが招待されていた。試合直後、勝ったタイガーにかけよる少年ファン。健太である。ミスターXは、タイガーの様子や二人の会話に不自然な部分があることを見抜く。ミラクル3が敗れ万事窮すかと思っていたXだったが、この後、健太を追跡調査し、伊達直人との関係を知るに至る。アニメでは早い段階でちびっこハウスに攻撃をしかけていたが、原作漫画では、ここでようやく伊達直人とちびっこハウスの関係を知るのだ。Xは健太を誘拐し、虎の穴本部にまで連れていく。
ここからの展開がすごい。タイガーは健太を救出するためアルプス山中にある虎の穴本部に単身乗りこんだ。迎え撃つのは虎の穴の練習生。銃火器を使えば半裸のタイガーを仕留めるのはたやすいことだが、簡単には死なせない。同門の後輩どもを相手に体力気力を徐々に消耗させる、格闘士の本能を逆用した残酷な処刑法。タイガーの疲労が限界に近づいた、その時、五人のタイガーマスクが出現した。正体は虎のマスクを被ったジャイアント馬場!アントニオ猪木!大木金太郎!グレート小鹿!上田馬之助!形勢は逆転し、六人の猛者達は、そのまま、プロレス界に巣食う巨大悪虎の穴を壊滅に追い込むのだ。ただし、支配者とミスターXはヘリコプターで脱出した。
もはや子供の妄想のレベルである。実在の有名レスラーが活躍するだけに、かえって非現実感が増す。ところが、原作者はプロスポーツ界の裏事情に精通し、馬場、猪木らと私的に親交があるのだ。そのことを考慮するとき、梶原一騎のイノセントな空想力にあらためて驚嘆する。
タイガーマスクに平穏な日々は続かない。アメリカににせタイガーマスクが出現したのだ。同じマスクとコスチューム。体格も声もそっくり。この偽者は、かつての黄色い悪魔さながらの反則戦法を使う。マスコミはこれを同一人物が二つのキャラクターを演じわけているものとして報道したため、タイガーマスクの信用は失墜。悪評はひろがり日本のリングで試合することさえ支障をきたすまでになった。証人がいないことが事態を深刻にしていた。行動をともにしてきた馬場、猪木にすら素顔を見せていなかったのだ。タイガーとしては、もはや、アメリカに乗り込み、偽者と戦い本物であることを実証するしかなかった。しかし、負けた場合、自分が偽者になることに気づきタイガーは戦慄するのだった。
アメリカについたタイガーは、偽者の行方を追う。焦るタイガーはいかがわしい人物群にさそわれ、いつのまにか危険な罠に落ち込んでいく。着いた先はラスベガス。少年読者に対しては、狂ったギャンブルの街として説明される。タイガーマスク「ネバタ砂漠のど真ん中に狂い咲く毒花のような街だ」偽者との試合方法はギャンブルデスマッチ。マットが36枚のパネルに分割されており、一定の重力をかけると武器が飛び出す凝った仕掛け。梶原一騎のアイデアも凄いが、それを絵にする辻なおきの画力も凄いのだ。偽者は鉄の鞭や棍棒を使って攻撃してくる。憎悪と苦痛のあまりタイガーマスクはついに黄色い悪魔の戒めを解いてしまう。血みどろの反則戦法で反撃し、アイデンティティーを賭けた戦いに勝った。アニメ版のタイガー・ザ・グレート戦に対応する血戦だった。
にせタイガーマスクの正体は虎の穴で友達だった韓国人キムだった。種明かしとしてはつまらないが、アジア王座決定戦では韓国人選手金一と熱い友情で結ばれたのに、ここでは裏切られ、タイガーマスクは人間に絶望する。
タイガーマスクは、ここ欲望の都ラスベガスにとどまったまま、更なる深い罠に堕ちてゆく。世界中の悪役レスラーを集めて開催される悪役ワールドリーグ戦に参加させられる。にせタイガーと対戦するためにサインした契約書に付加条項があったのだ。覆面ワールドリーグ戦と対比させてみよう。反則自由のデスマッチルールは共通。参加人数と賞金の規模が大きいが、これは金持ちの客ばかりが相手で、全試合ギャンブルの対象になっていることで説得力がある。読者から見て、最大の違いは覆面ワールドリーグが架空のレスラーばかりで争われたことに対して、悪役ワールドリーグは、タイガーマスク以外、当時現役の実在選手ばかりだったことである。これは、掲載誌が月刊ぼくらから、対象年齢の高い週刊少年マガジンに移ったことと関連があるかも知れない。小中学生は未知のレスラーのプロフィールについての知識を欲した。そして、原作者梶原一騎の持つ情報を信頼していたのだ。「タイガーマスク」はそういう読まれ方もしていたのだ。いま読み返すならば、当時のプロレス状況を推察できる参考書籍にもなる。
架空のレスラーから実在レスラーに方向転換したことで、小さくない瑕瑾が生じた。悪役ワールドリーグ戦での最大の敵はディック・ザ・ブルーザーとキラー・コワルスキーなのだが、この二人は過去に登場していた。コワルスキーは、第10回ワールドリーグ戦でジャイアント馬場に敗れている。ブルーザーも馬場、猪木に負けた後、赤き死の仮面に睨みつけられ退散した。この二人が実は最強だったと言うことは、過去のタイガーマスクストーリーを否定する自己撞着になってしまうのだ。覆面ワールドリーグ戦も凄惨な戦いであったが、仮面劇的な楽しさがあった。しかし、実在レスラー相手の反則合戦は現実感が増した分、印象が残酷である。画面から血の匂いがしてくるようだ。プロレス漫画タイガーマスクも行き着くところまで行ったという感慨がある。キラー・コワルスキーに勝ちタイガーは優勝するのだが、会場を出て、ネオンの町を歩きながら「つかれた…」とつぶやく。にせタイガーを追ってアメリカに来て、そして、悪役ワールドリーグ戦で世界の悪役レスラー達と戦いきったのだ。読者もまた疲れた。つねに肉体と精神の極限状況におかれる主人公に休息を与えてやりたくなる。たった一人で世界のみなしごを救おうとする男の行動をやめさせたい。
酸鼻きわめた悪役ワールドリーグ戦で、清涼感の残る試合があった。対エル・サイケデリコ戦。ミル・マスカラスの弟であるこのレスラーは兄同様第一級のテクニシャンではあったが、悪役としては三流だった。試合後、タイガーの控え室にやってきたサイケデリコは反則技も才能であると言う。この才能が無いとプロレスの世界ではチャンピオンになれないと持論を展開する。そして、その天賦の才能を持つタイガーマスクに、君ならルー・テーズのような偉大な王者になれると讃えた。タイガーマスクの本質は悪役レスラーだった。アニメと原作が同じ結論にたどり着いたことは偶然ではない。悪役レスラーから正統派レスラーになる努力の過程を道徳的理由付けにして始めた子供向け作品であったが、人間の成長とはそんな単純なものではない。帰国したタイガーに、あれほど反則を禁じていた馬場も言った。「5秒以内の反則はプロレスルールで許されている」その反則をうまく使える者、あるいは相手の反則攻撃に対処できる者が真のチャンピオンなのだと。正義の心と悪魔の力。悪役ワールドリーグ戦を制して帰国したタイガーマスクは、レスラーとしてほぼ完全に近づきつつあった。
梶原一騎が用意した最後の試合はドリー・ファンク・ジュニアとのタイトルマッチだった。連載当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンであり実在人物なのだが、予備知識と現実のプロレス界の動きに呼応する作品という前提が無ければ、唐突に出て来たキャラクターである。タイガーは実力でドリーを圧倒するのだが、追いつめられたドリーはレフェリーに暴行を加えタイトルマッチを無効にする作戦で逃げた。さすがの梶原もタイガーマスクをNWA世界ヘビー級チャンピオンにするわけにはいかなかった。その権威には遠慮する。リターンマッチが大阪府立体育館で行われる予定だったのだが、その直前、伊達直人は子供の身代わりになりダンプカーにはねられ死ぬ。あっけない最後であるが、タイガーマスクにふさわしい死だとも見れる。ただ、その前に悪役ワールドリーグ戦の賞金3億円をちびっこハウスに寄付している。これはいくらキザ兄ちゃんでも額が大き過ぎる。ルリ子も受け取ってはならない。現実感と日常性を破壊してしまっている。この3億円が何に使われなければならなかったといえば、それまでにタイガーマスクが夢想していたみなしごのための遊園地建設資金だろう。伊達直人のちぐはぐな行動の選択が、その死さえ安易な結末と思わせる憾みを遺してしまった。
「柔道一直線」の漫画連載は昭和42年から昭和46年。テレビは昭和44年から昭和46年。梶原一騎としては完全に「タイガーマスク」と同時期の作品である。原作漫画の基本設定を踏襲しながらテレビ側スタッフが独自のストーリー展開をしていった経過も「タイガーマスク」と似ている。かたやアニメでかたや実写ドラマではあるが製作はどちらも東映だった。TBSテレビ番組「柔道一直線」の放送時間帯は日曜日の午後7時から30分。スポンサーは武田薬品。「月光仮面」から始まって「隠密剣士」「快傑ハリマオ」…そして「ウルトラQ」から始まるウルトラシリーズ、錚々たるタイトルがつらなる黄金の放映枠だった。ただし、東映テレビにとっては「ウルトラマン」の後を受けて作った「キャプテンウルトラ」では大赤字を算出し、得意の時代劇「妖術武芸帳」では惨憺たる低視聴率を記録した鬼門だった。2クールの契約だった「妖術武芸帳」を3ヶ月で打ち切りにされた東映テレビ部の渡邊亮徳部長は、起死回生を期して時のヒットメーカー梶原一騎に交渉し「柔道一直線」の版権を獲得した。実は東京ムービーが読売テレビでアニメにする話もすすんでいたという。二週間たらずの慌ただしい準備期間を経てスタートした「柔道一直線」は大好評となった。常時20パーセント以上の視聴率を稼ぎ、全93回二年にわたって放送される。主演の桜木健一と吉沢京子はスターになった。
このドラマが柔道部の入部希望者を増やしたことは、日本柔道の強化に直結する。柔道が正式種目に採択された昭和39年の東京オリンピックの無差別級決勝戦で日本選手がオランダのヘーシンクに敗れ、主人公が雪辱を誓うところから始まるこの漫画の主題は現実世界で果たされたと言える。もう一つ重要なエポックがあった。東映側制作担当の内田有作さんが、殺陣師の日尾孝司さんと喧嘩をしてしまったのだ。日尾さんに現場を去られて困った内田さんは旧知の間柄だった新東宝出身の山田達雄監督に相談する。そこで山田監督が紹介したのが大野幸太郎さんとその一門大野剣友会だった。その名の通り戟剣が専門だったのだが、大野剣友会は刀を使わない格闘アクションを工夫研究し「柔道一直線」の人気向上におおいに貢献した。
「柔道一直線」が高視聴率を維持していた頃、東映の渡邊亮徳さんは大阪毎日放送との間で新番組の企画を進めていた。やはりスポーツ根性ブームに便乗して「サッカー番長」なる作品が、アニメーションにすることを前提に検討されつつあったが、一旦、白紙に戻ってしまう。どうも決定的なものが無いといったあやふやな理由だった。ここで、読売テレビから「タイガーマスク」の報告書が上がってきた。この番組も渡邊亮徳さんが読売テレビに売り込んだ企画だった。「タイガーマスク」の人気要因は、スポーツ競技的興味でも社会問題への言及でもなく、つまるところ奇妙な覆面レスラー同士の死闘で、主人公の魅力は正体を秘密にして変身することだと分析されていた。それならば、仮面をつけて変身する主人公が、毎回、仮面の怪人と戦う物語を作ればどうかと渡邊さんは考える。東映側からのこの提案に対して、主人公をオートバイに乗せたらよいと言ったのは、当時毎日放送編成副局長の廣瀬隆一さんだった。月光仮面が念頭に浮かんだのかも知れないが、廣瀬さんのオートバイ好きは軍隊時代にさかのぼる年季の入ったものだった。のちに「仮面ライダー」として結実するこの企画は、かくして走り出す。不安はあった。日本のテレビ映画は「月光仮面」から始まったのだが、このとき、仮面ものはまったく製作されていなかった。ヒットしないから製作されなかったわけで、渡邊さんからプロデューサーに指名された平山亨さんも『この企画はあたるわけがない』と自信が持てなかった。
ヒットするか否かといった未来の懸念もさることながら、目前の難関は東映内部にあった。労働組合が大泉の撮影所を占拠していたため、翌年(昭和46年)4月に放映開始が決まった新番組の撮影が不可能だったのだ。「仮面ライダー」の制作担当を任されたのは反労組の立場にあった内田有作さんだった。内田さんは東映外部からスタッフを集め、川崎市の生田にスタジオを見つけてスト破りの撮影を開始する。格闘アクションが最大の見せ場である「仮面ライダー」の殺陣を担当したのが「柔道一直線」の大野剣友会だった。そして、この番組は空前絶後の大ヒットシリーズになるのだが、「タイガーマスク」「柔道一直線」の原作者梶原一騎は、その誕生に一役買っているとも言えないか。
吉川英治の「宮本武蔵」は大衆小説の形式をとった人生の指南書として日本人に永遠に読み継がれる。朝日新聞の連載小説として発表されていた当時からすでに格別な世評があったようだ。エピソードを記す。2.26事件で戒厳令がしかれていた東京の市街を一台のオートバイが走っていた。当然、止められ検問を受ける。オートバイの運転者は「吉川英治先生のところへ宮本武蔵の連載原稿をもらいに行くところだ」と答えた。すると、すんなり通行を許可された。撃墜王坂井三郎中尉は空戦時に生死を決定する視力の低下を防ぐため字の細かい新聞は読まないことにしていた。それでも、「宮本武蔵」だけは読まずにいられなかったという。戦いを通じてストイックに人間完成の道を求める宮本武蔵に大山倍達をなぞらえて書かれた漫画が「空手バカ一代」である。昭和46年から講談社の週刊少年マガジンに連載された。同誌にはかつて「巨人の星」「あしたのジョー」そして「タイガーマスク」が掲載されていた。これらの大ヒットタイトルよりも、「空手バカ一代」こそが梶原一騎の特性を代表する作品となった。以降、梶原は大山倍達をその絶筆のときまで書き続けるのだ。
作画はつのだじろうだった。「空手バカ一代」の前に秋田書店の冒険王で、やはり空手漫画「虹を呼ぶ拳」で梶原と組んでいた。つのだの描く大山倍達は実物に似ていないのだが、やがて、心霊恐怖漫画の大家として認知されるつのだである。鬼気迫る求道者といった表情の大山倍達は作品の主題に合っていた。悲願熱涙編をもってつのだは作画を降り、影丸譲也に交替する。つのだ側の不満や事情があったようだが、惜しい。
暴虐の限りを尽くした若き武蔵は姫路城の天守閣に幽閉される。その部屋に置かれてあった幾巻もの蔵書を読み啓蒙され剣の道で自己を錬磨する決心をした。敗戦でやけになった大山倍達は進駐軍や愚連隊を相手に暴れ狂う。やられっぱなしだった相手も機関銃などで武装を強化し本格的な包囲網を作って大山倍達一人を狙ってきた。追いつめられた大山倍達は古本屋の二階に隠れた。ここで「宮本武蔵」に出遭う。激しく感動した大山倍達は、武蔵の剣を空手の拳にかえて生きる決心を固めた。黄色い悪魔とまで呼ばれた悪役レスラーが反則を封じて、スポーツ選手の域にとどまらず人間としての成長を目標にさだめる「タイガーマスク」の物語からも「宮本武蔵」の影響を看てとることはたやすい。「空手バカ一代」は「タイガーマスク」を土台にして完成した作品とも言えるのだ。実話と宣して語られる「空手バカ一代」に創作された部分があるとする非難は発表当時からあったが、吉川英治の「宮本武蔵」にしても大半は創作である。大山倍達も梶原一騎もすでに亡いが「空手バカ一代」もまた人生の座右として永遠に読み継がれるであろう。この項に坂井三郎中尉の名前を出したが、その自伝「大空のサムライ」も「宮本武蔵」「空手バカ一代」に並ぶ男子必読の書である。
「侍ジャイアンツ」は集英社週刊少年ジャンプに昭和46年8月から49年10月まで連載された。作画は井上コオ。「ワイルド7」の望月三起也のアシスタント出身であるせいか人体デッサンに独特の癖がある。原作漫画よりも、むしろテレビアニメが大人気になった。絵柄も見やすくて動きも良い。アニメーション製作は「巨人の星」と同じ東京ムービー。もちろん読売テレビで放送された。「巨人の星」同様、ピッチャーである主人公番場蛮とライバルとの魔球対決が大筋である。差をつけるために家族構成が父と姉弟だった星家に対して、こちらは母と兄妹にするなど細部の設定が工夫されているが、なによりも番場蛮の明朗にして豪快なキャラクターが大成功で、「巨人の星の二番煎じ」の誹りも吹き飛ばした。
職業野球と呼ばれていた時代、野球選手の社会的地位は低かった。実際、素行の悪い選手も多かった。川上哲治は監督に就任すると、選手の日常生活を徹底的に管理した。「巨人軍選手は紳士たるべし」とも言った。また「野球は基本である」との信念のもと、作戦はひたすら堅実だった。その結果、ジャイアンツを常勝チームにしたのだが、栄光の頂点で不安がよぎる。長嶋茂雄に限界の日が近づいてきたのだ。そして、長嶋なきあとの選手達を見たときに愕然としてしまった。身体能力は高く真面目であるが、なにかが足りない。戦前戦後、自身が戦ってきた男達が持っていたもの……川上は、それを「サムライ」と言い表した。「サムライがほしい」それがなければ、近い将来、日本野球は必ず廃れる予感がする。長嶋に監督を禅譲する前にサムライ選手を探し出さねばならない。物語はここから始まる。
「侍ジャイアンツ」における「サムライ」の定義は、徳川時代に完成した礼節を弁えた武士ではない。宮本武蔵のような剣の求道者でもない。番場蛮は武士の家系の子弟ではなく高知県土佐の漁師の少年だった。おそらく漁師出身だった“鉄腕”稲尾投手からイメージされたのだろう。昭和三十年代、稲尾の所属する西鉄ライオンズは、管理野球の川上巨人軍に対して、その気風から野武士軍団と呼ばれた。だが、さらに番場蛮には倭寇のようなスケールの大きさをもとめていたようだ。北条、足利、武田、織田などが内戦をしていたのが日本史の本流であるが、戦国以前から、小舟で海を征服してアジアを席巻した日本人達がいた。「侍ジャイアンツ」では、それほどの果敢な闘魂と壮大な気宇も持つ型破りな男を「サムライ」と呼ぶ。
番場蛮の声を演じたのはタイガーマスクの富山敬。後番組「宇宙戦艦ヤマト」の主人公古代進の役を得たことで、声優として不動の存在になるのだが、初放送時は「侍ジャイアンツ」の方が「宇宙戦艦ヤマト」よりも評判は良かった。日曜夜7時30分から始まる「宇宙戦艦ヤマト」の裏番組には「アルプスの少女ハイジ」があったのだ。かの宮崎駿は「侍ジャイアンツ」第13話までの原画を描いているのだが、「アルプスの少女ハイジ」に参加するために去った。「侍ジャイアンツ」には東映動画を独立した「タイガーマスク」の作画監督我妻宏の名前も確認できる。そして、原作漫画にもアニメ版にも大山倍達を思わせる人物が登場する。この時期の梶原一騎がどれほど大山倍達に傾倒していたかがうかがわれるようだ。大山倍達もまた時代の人であった。あるアンケートによると、少年の尊敬する人物として王貞治と並んでいたともいう。
「愛と誠」は昭和48年から昭和51年にかけて週刊少年マガジンに連載された。作画はながやす巧。漫画とは一線を画す精緻なタッチで描写された絵柄だった。デフォルメを極力排して物語や絵柄にリアリズムを追求する一連の漫画家達は自らのワークを劇画と称した。ディズニー乃至手塚治虫につらなる王道に異を唱える潮流でもあった。梶原自身も劇画という呼び名を好み、アンチファンタジー運動に連動した。「愛と誠」は梶原得意のスポーツ対決路線を捨て純愛をテーマに据えた。このことで少女を読者層に取り込み一般にまで拡がった。「愛と誠」はアニメ化の方向には向わず、当時のトップスター西城秀樹が主演した実写映画、またテレビドラマとなり、まさしく一世を風靡した。ブームになり登場人物のセリフが流行語にもなった。梶原一騎の名前も、この作品をもって漫画原作者から純粋に作家として評価されるようになる。ただ、なぜか同じように社会現象を起こした「あしたのジョー」や「空手バカ一代」のように後世に読み継がれる作品にはならなかった。理由の穿鑿を試みることは本項の主題から外れる。「タイガーマスク」との関係性も希薄な作品である。一点。主人公の名前太賀誠の「たいが」は大河の如き人生ドラマを書こうとした梶原の意気の顕われでもあったのだが、「たいがまこと」の名はタイガーマスクのアナグラムではないか?
アニメ「新巨人の星」は昭和52年にスタートする。移り変わりの早いジャンルであるので、すでに過去の名作の部類におさまっていた「巨人の星」ではあったが、星飛雄馬の名を忘れている人はいなかった。星飛雄馬のカムバックは幅広い世代の話題になり大歓迎された。現実では前年監督就任一年目の長嶋茂雄が常勝巨人軍を最下位にしてしまい、恰好の批難の的になっていた。そこに救世主として星飛雄馬が登場する。その背番号は「3」。ヒーローが帰ってくるには最高のお膳立てがなされていた。原作漫画も、前作と同じく川崎のぼるによって描かれるが、掲載誌は少年向け漫画専門誌ではなく、一般雑誌「週刊読売」だった。テレビアニメは好調だったのだが、現実世界の読売巨人軍に問題が起きる。阪神タイガースがドラフトで指名した江川卓を、巨人が開幕前にトレードで獲得してしまったのだ。新聞、テレビはこれを大事件並に扱った。金のある球団ならどんな横暴も許されるのかという論調で、子供の倫理観への悪影響はまぬがれないとされた。「新巨人の星」は半年間中断した。この間に放送されたのは「宇宙戦艦ヤマトU」。そして、「新巨人の星2」として再開する。原作とアニメの最終回は異なる。アニメ版では、この作品の象徴的存在であった星一徹の死をもって終る。なお、星飛雄馬の人生はまだ続く。
昭和55年3月、映画「あしたのジョー」が公開された。テレビアニメの第1話から力石の死までを再編集したものだったが、主題歌BGMは新たに作り直され、配役についても、力石徹をイメージに近い細川俊之、白木葉子を檀ふみに変えるなどの創意が凝らされた。昭和55年3月といえば、「機動戦士ガンダム」放映終了直後である。徳間書店の「月刊アニメージュ」などでアニメーションの研究が盛んになっていた頃だった。「機動戦士ガンダム」の総監督富野喜幸の演出は毎号誌面をさいて分析された。その富野が「かなわない」と証言したアニメーターが出崎統だった。「出崎統に学ばなかったらガンダムは無かった」とも言う。別名さきまくら。アメリカから入ってきたアニメーションを日本の感性で独自の進化をさせたアニメ演出家とでも言おうか。アニメ版「あしたのジョー」の監督だった。おそらく、映画公開と同時期に準備が始まっていたものと推察されるが、同年10月からテレビアニメ「あしたのジョー2」の放送が開始される。監督は出崎統。作画監督は杉野昭夫。前作からのコンビである。少女向けの「エースをねらえ!」「ベルサイユの薔薇」を経た二人の演出からは、泥くささがうすれ貧民街を舞台にしながらも都会的で洗練されたものになっていた。しかし、この変化は時代の雰囲気であったかも知れない。約10年の間隔がある。「あしたのジョー」を小学生で見た人も成長している。新作はその鑑賞に耐えうるアニメとして完成された。
「あしたのジョー」と「タイガーマスク」を比べてみる。アニメ「あしたのジョー」が終了した理由は、テレビが原作漫画の進行に追いついてしまったからであった。「タイガーマスク」の場合、アニメ版は独自のストーリー展開に移行し、最終回すら原作とは全く違う結末だった。「あしたのジョー2」は力石の死から開始される。前作はカーロス・リベラ戦で終ったのだが、この試合も、もう一度描き直された。その基本ストーリーは原作から大きく離れることはなく、最終回もちばてつやが描いた最後のページと同じ絵で終るのだ。ストーリーの変更は許されなかったと言ってもよい。誰が許さなかったかというと、原作者であり、読者であり、アニメスタッフ自身であろう。ちばてつやは「あしたのジョー」の迫真性を高めるために、わざわざドヤ街に住んだという。辻なおきは、梶原一騎の提示した「ライオンマスク」の原案に、ライオンは描くのに時間がかかるからトラのマスクにしたいと対案を出した。同じ梶原作品であるが、スタート時点からモチベーションにおいて対蹠的であった。
さて、「巨人の星」「あしたのジョー」のリメイクが成功したことで、いよいよ、わが「タイガーマスク」にも、そのときがやってくる。
「四角いジャングル」は昭和53年から週刊少年マガジンに連載された。作画は中城健。梶原一騎と組んだ作品としてはキックボクシングを題材にした「キックの鬼」(少年画報)「紅のチャレンジャー」(週刊少年マガジン)と「ボディーガード牙」(週刊サンケイ)から始まるカラテ地獄変シリーズがある。安定した画力があり、漫画で格闘技を表現することには適した作家だった。蛇足ながら、怪獣ブームのときには「ウルトラQ」をコミカライズした人として特撮ファンには知られている。「四角いジャングル」。この作品こそ漫画史上空前の方法で書かれた。日本人空手家赤星潮がアメリカ大陸に乗り込み、プロレス、ボクシング、マーシャルアーツに挑戦する……。はじまりは、梶原一騎の空手漫画の常套手段だった。ミル・マスカラス、アントニオ猪木、大山倍達らを実名で登場させ読者の感興をひくことも梶原作品ならでは、そして、梶原一騎だけが出来る手法である。この頃の梶原は漫画原作者であると同時に黒崎健時さんと組んで、格闘技のプロモートにも手を染めていたのである。黒崎さんは極真空手の最高師範だった人で、キックボクシングに転向し、ジムを開き興行を主催していた。梶原は「四角いジャングル」の中に、黒崎ジムの所属選手藤原敏男や招待選手ベニー・ユキーデを登場させ、この漫画を興行の宣伝媒体として活用し始めた。たんなる紹介程度にはとどまらず、主人公赤星潮をおしのけて活躍させる。黒崎健時さんは「空手バカ一代」にも登場するので、当時の格闘技界を描いた「四角いジャングル」は、はからずも「空手バカ一代」の続編になっている。そして、格闘技のリングを弱肉強食の“ジャングル”になぞらえるこの作品の題名は、あきらかに「タイガーマスク」である。
梶原一騎の野望は現実の格闘技試合の結果を漫画で再現することだけにはとどまらなかった。親交の深かったアントニオ猪木の異種格闘技戦シリーズにも積極的に協力し、「四角いジャングル」で宣伝する。猪木の格闘技戦挑戦者には二流三流の選手もいたのだが、梶原はこれに「タイガーマスク」的な物語をつけておおいに煽った。そして、梶原一騎もその発展とイメージ戦略に尽力した、世界最大の空手組織極真会のウィリー・ウィリアムスをアントニオ猪木に挑戦させようとしたのだ。現実に起きた事、たとえば歴史や偉人伝に、多少のアレンジやデフォルメを加味して漫画にすることはよくある。あるいは、漫画が読者の人生の方向に影響を与えた例もある。ところが、梶原は格闘技プロモーターとして一大イベントを企画し、現実世界の人間を動かしながら、それを漫画にしたのだ。ウィリー・ウィリアムスの挑戦から猪木との試合までが、この作品の本流になりクライマックスになった。
漫画「四角いジャングル」の中では、アントニオ猪木のプロレス世界最強宣言に対して、大山茂極真会ニューヨーク支部長と愛弟子ウィリー・ウィリアムスが「地上最強の格闘技は極真空手である」と立ち上がったことになっている。むろん事実は違う。梶原自身と関係者が後年に明かした、この試合の裏舞台について記録しておく。真相と言い切るには、なお複雑なのだが、この特殊な形式で書かれた漫画の謎を解くことに興味は尽きない。梶原一騎は大山倍達と組んで極真世界大会のドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ」シリーズを製作した。出場する選手の練習風景や試割りを撮影した場面で、ウィリー・ウィリアムスをハイイログマと戦わせる。2メートルを超す黒人選手だが、ふだんからクマと戦っているわけではない。映画のためにセッティングされたのである。極真世界大会自体が純粋なアマチュアスポーツトーナメントとは言えない部分もあった。タイから二流のムエタイ選手を招いて参加させ興行的な彩りを施したりしていた。覆面ワールドリーグ戦にも通ずる発想である。黒崎健時さんとも新日本プロレスとも関係があった梶原は、プロレス対空手の究極の異種格闘技戦を考える。両者は最強でなければならない。プロレスの代表はアントニオ猪木。空手からは、まさか大山倍達を出すわけにはいかない。自らが指揮した映画で、クマ殺しの怪物空手家のイメージを与えたウィリー・ウィリアムスを選んだ。大山倍達の代理として申し分の無い男である。この魅力的な話に黒崎健時さんは乗った。黒崎さんはニューヨークの大山茂支部長に電話し、ウィリー・ウィリアムスの出場を要請する。武道界において先輩後輩の関係には絶対的なものがある。大山茂支部長、そして、ウィリー・ウィリアムスは承諾した。複雑な話の中で、この二人だけは比較的無垢だった。「四角いジャングル」中でも、硬派な武人、スポーツマンとして描かれている。
「四角いジャングル」の中で、梶原はウィリー・ウィリアムスがモハメッド・アリより実力が上であることも強調した。「20世紀最大のスポーツマン」とまで言われるアリと、本業はスクールバスの運転手であるウィリーとの知名度の差は埋め難いのだが、梶原一騎と大山倍達が断言するのなら、読者はそれを信じたのだ。猪木戦に先立つ昭和54年11月23日、ウィリー・ウィリアムスは日本武道館で開催された極真会主催の第2回世界カラテオープントーナメントに出場する。この準決勝で不可解な出来事が起こった。優勝候補のウイリーが狂乱状態になり反則負けになるのだ。相手は三瓶啓二選手だった。ここでウィリーが暴走したことに首肯できる理由が見つからない。筆者の憶測を述べる。まず、大会に先立ち大山倍達は「日本が負けたら腹を切る」と宣言していた。優勝者が日本人選手でなかったら屠腹して責任を取ると言ったのだ。オリンピック柔道競技において優勝をオランダなどの外人選手に攫われ続けていた時代背景もある。大山倍達自身は切腹する覚悟があったかも知れないのだが、当惑したのは海外支部長達だった。言葉の壁を超えしごき育てた愛弟子を勝たせたいのだが、やわか館長に腹を切らすわけにもいかない。磯辺清次ブラジル支部長は、日本人選手の主力武器下段回し蹴りをブラジル選手に教えずに出場させ、後で謝ったという。大山茂ニューヨーク支部長も、ウィリーに反則負けを指令した可能性がある。この大会で優勝したのは中村誠選手。ウィリーは4位に終った。いま一つの推測であるが、この後、猪木と戦ってウィリーが敗れたとしても、それは4位の選手の敗北であって極真空手の負けではないとする保険のつもりではなかったか?また、大山倍達は青少年育成団体という名目を持ち出し、プロレスラー猪木に真剣勝負を挑むウィリーに破門を言い渡し、師の大山茂支部長は禁足処分とした。この二人の処分については大山倍達の独断であり、梶原一騎の意向は含まれていない。プロモーター梶原にとってみれば、名目上であれ、ウィリーが極真と無関係となれば、試合の興味は半減してしまう。実は、ウィリーを猪木に挑戦させる話が持ち上がった頃から、大山倍達は、新日本と全面戦争をして極真の最強を証明してやろうと考え始めていたのだ。新日本プロレスも、当時まぎれもなく世界最強のプロレス集団ではあった。しかし、大山倍達を神とも崇める狂信的な門下生が数百万人いるとも喧伝される空手組織相手に殲滅戦をするのは不気味で、何より利が無い。プロレスラーはプロレスでめしを食っているのだが、空手家の多くは本業ではないのだ。新日本プロレス新間寿営業部長は、意を決して、大山倍達に一対一の会談を申し込む。極真本部まで出向いてきた新間という人に、大山倍達も端倪すべからざるものを見たのだろう。矛を引くことを約束し、その証として、ウィリーの破門、大山茂師範の禁足という処置をとった。このとき、大山倍達と新日本の間に裏取り引きは無かった。新間さんもこのときの会談と大山倍達の印象に感激したと語っている。梶原としては、ウィリー破門が寝耳に水だったと同時に、極真対新日の全面戦争が停戦になったことも残念であったろう。プロモーターとしても漫画原作者としても大魚を逸した心境だったに違いない。この頃、梶原はトーナメント優勝者の中村誠選手にプロレス転向話も持ちかけていた。
「四角いジャングル」には描かれていないが、この時期、猪木は厄介な人物の挑戦を受けていた。“東海の殺人拳”の異名を持つ名古屋の空手家で水谷征夫さんという人。素手ではなく鎖鎌を使うと言う。断っても断っても執拗に電話を掛けてくる。プロレスが最強と宣言するなら鎖鎌にも勝てるはずというのが武道家水谷さんの論理であるが、プロファイター猪木としてはリスクだけが大きくて興行価値が低すぎる。新間寿営業部長は、安藤組の元組長安藤昇さんに仲介を頼んだ。これでようやく水谷さんも折れる。新日本側は水谷さんの推薦する弟子、後藤達俊を入門させた。和解後、さらに水谷さんは、空手の流派名を猪木の本名寛至から一字もらって「寛水流」とし、アントニオ猪木を最高顧問に迎えた。これが、いままで猪木と新日本を応援してきた梶原一騎を怒らせた。梶原は極真空手の顧問をしているのだ。晩年の梶原の転落は、格闘技プロモーターとして有頂天になっていたこの時期に始まっていた。詳細と顛末は後の項で語ることになろう。
昭和55年2月27日。蔵前国技館のリングにアントニオ猪木とウィリー・ウィリアムスは立った。同じリング上に立会人の梶原一騎や黒崎健時さんもいる。少年マガジンの読者にとっては漫画と現実が交錯するような光景だった。漫画を漫画で終らせることでは満足せず、漫画で世の中を動かすことが梶原の本懐であった。漫画のシーンを描くために、これほどの人間や団体、テレビ局まで動かす作家は二度と現れないだろう。この対決のルールは調印式の直前までもめたのだが、一方で、完全決着を着けずドローで終らす約束も裏で決められていた。これは、梶原自身が後年、ゴング格闘技(日本スポーツ出版社)の誌上で白状している。梶原の書いたシナリオは以下の通り。2ラウンドで両者はもつれあいリング外に出る。ここでレフェリーがリングアウトを宣言する。この試合の特別レフェリーはユセフ・トルコだった。元日本プロレスのレスラーだったが、このときは梶原の事務所の役員という立場にあった。当然、観客から不満のブーイングが起こることも計算している。入場料は10万円だった。ここで梶原一騎がリングに上がる。試合続行を告げる。観客は狂喜する。さらに2ラウンド戦い、4ラウンド引分けで終了。さすがの梶原も、これ以上のストーリーは書けなかった。引分けにすることを知っているのは数人だけである。猪木、ウィリー、梶原、黒崎、大山茂、新間、トルコ。ウィリー側のセコンドは真剣勝負のつもりである。客席にも極真空手の関係者や門下生が座っている。猪木側のセコンドにつく新日本のレスラーも殺気立っている。さらに、極真側の乱入から猪木をガードしようと寛水流の人間も会場に混ざって危険な雰囲気を出している。実際、両選手がリング下に出ると、セコンド同士の大乱闘が始まり、客席でもけんかが起こっていた。テレビ観戦をしていた大山倍達は、ウィリーが16オンスの大型グローブをはめさせられていることに怒り、添野義二さん(当時極真空手埼玉支部長)に命じて会場に向わせた。添野さんは鋏を持ってリングに上がりウィリーのグローブの紐を切る。会場全体が混沌の極みになっていた。なんとか4ラウンドドローの結果に終らせることが出来たが、梶原としてもほっとしたというところだったであろう。
猪木対ウィリー戦は、梶原一騎と大山倍達の関係に亀裂を生じさせる結果になってしまった。大山倍達は梶原一騎に絶縁状を送った。梶原と仲の良かった芦原英幸愛媛支部長や添野義二埼玉支部長らも破門した。禁足処分になった大山茂ニューヨーク支部長も極真に復帰せず流派を立てた。自分の流派を立てれば本部に上納金を入れなくても済む。地上最強の巨大組織だった極真は分裂して弱体化していくのだ。 次ページ→